2010年11月18日
二宮洋一
二宮 洋一(にのみや ひろかず、1917年11月22日 - 2000年3月7日)は兵庫県出身のサッカー選手、サッカー指導者。第二次世界大戦後初のサッカー日本代表監督を務めた。現役時代のポジションはフォワードであった。
目次 [非表示]
1 略歴
2 所属クラブ
3 代表歴
3.1 出場大会
3.2 試合数
4 外部リンク
略歴 [編集]
旧制第一神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)を卒業後、慶應義塾大学予科を経て大学に進学。 慶應義塾大学体育会ソッカー部および慶應BRBの選手として、大戦前のサッカー全日本選手権大会(当時は天皇杯が冠されていなかった)において、4度の優勝(1936年、1937年、1939年、1940年)を遂げた。 また大戦後は慶應BRBおよび全慶應のメンバーとして、天皇杯に3度優勝(1951年、1952年、1954年)した。
1951年にはサッカー日本代表の選手兼任監督として、ニューデリーで開催された第1回アジア競技大会に出場した。 その後も選手として何度か日本代表に名を連ねたが、1954年の天皇杯決勝を最後にトップレベルの競技生活からは退いた。
1976年には日本サッカー協会理事に就任、各種の役職を歴任した。 2000年に肺炎で死去。
2006年4月には、サッカー功労者として日本サッカー殿堂入りが決定した。
所属クラブ [編集]
第一神戸中学校
慶應義塾大学
エリオット商会
代表歴 [編集]
出場大会 [編集]
アジア競技大会(1951年、1954年)
ワールドカップスイス大会予選
試合数 [編集]
国際Aマッチ 6試合 1得点(1940-1954)
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1 略歴
2 所属クラブ
3 代表歴
3.1 出場大会
3.2 試合数
4 外部リンク
略歴 [編集]
旧制第一神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)を卒業後、慶應義塾大学予科を経て大学に進学。 慶應義塾大学体育会ソッカー部および慶應BRBの選手として、大戦前のサッカー全日本選手権大会(当時は天皇杯が冠されていなかった)において、4度の優勝(1936年、1937年、1939年、1940年)を遂げた。 また大戦後は慶應BRBおよび全慶應のメンバーとして、天皇杯に3度優勝(1951年、1952年、1954年)した。
1951年にはサッカー日本代表の選手兼任監督として、ニューデリーで開催された第1回アジア競技大会に出場した。 その後も選手として何度か日本代表に名を連ねたが、1954年の天皇杯決勝を最後にトップレベルの競技生活からは退いた。
1976年には日本サッカー協会理事に就任、各種の役職を歴任した。 2000年に肺炎で死去。
2006年4月には、サッカー功労者として日本サッカー殿堂入りが決定した。
所属クラブ [編集]
第一神戸中学校
慶應義塾大学
エリオット商会
代表歴 [編集]
出場大会 [編集]
アジア競技大会(1951年、1954年)
ワールドカップスイス大会予選
試合数 [編集]
国際Aマッチ 6試合 1得点(1940-1954)
Posted by minokei1 at 21:57│Comments(0)
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