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2010年11月30日

├─≠ョ─ヵラスと佐々木太一

├─≠ョ─ヵラス ウイスキー・アンバサダー
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 2005年に引退後は、サントリーの営業社員として活躍する一方で、CS放送GAORAやフジテレビのバレーボール中継の解説も積極的に行っている。  


Posted by minokei1 at 20:47Comments(0)

2010年11月25日

├─≠ョ─ヵラスと坪井慶介

├─≠ョ─ヵラス いじられキャラ
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 少年時代には野球もやっていたことがある。

  


Posted by minokei1 at 09:16Comments(0)

2010年11月18日

野口 幸司

野口 幸司(のぐち こうじ、1970年6月5日 - )は、千葉県出身の元サッカー選手。現在はサッカー解説者を務めている。ポジションはフォワード。
目次 [非表示]
1 略歴
1.1 高校時代
1.2 プロ入り後
2 所属クラブ
3 個人成績
4 代表歴
4.1 試合数
略歴 [編集]

高校時代 [編集]
船橋市立船橋高等学校ではインターハイ2連覇、高校選手権でも準優勝を経験するなど、初期の黄金時代を築く主役として活躍した。高校1年生からレギュラーで出場しており、当時は小川誠一(元名古屋グランパスエイト)、曽我豊明(元水戸ホーリーホック)と野口の3人が市船の将来を託された選手であった。高校2年生のとき高校総体インターハイ(北海道開催)では、初出場初優勝を飾っている。その後、野口が3年生のときも高校総体インターハイでも優勝しており市船は高校総体2連覇を達成した。特にこの大会では野口は毎試合得点をしており市船優勝の原動力であった。この時はMFでありゲームも作るが得点もする怖い市船の頭脳であった。
プロ入り後 [編集]
ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)の黄金期を支えたエースストライカー。1994年にJリーグに昇格したベルマーレ平塚の、リーグ戦での初得点者でもある(ヴェルディ川崎戦 1994年3月)。
プレースタイルは昨今では珍しいワンタッチゴーラータイプで、シュート力、ヘディング、ドリブルなど、特段秀でたものはなかったが、決定力が非常に高く、シュート1本あたりのゴール確率はJリーグトップクラスであった。また、ベルマーレ在籍当時は、ベッチーニョ、アウミールと典型的なドリブル突破からラストパスを送るタイプの選手が在籍したためにあまり目立たなかったが、ジャパンフットボールリーグ当時はウインガーとしてプレーするなど、サイドからのパスにも非凡な面を持っていた。
1995年5月3日、サントリーシリーズ第13節鹿島アントラーズ戦でJリーグ1試合個人最多得点記録となる5得点を記録。この試合は新人であった中田英寿がJリーグ初得点を記録した試合であり、ベルマーレが7-0で勝利した。中田は後半に野口の得点もアシストしている。この記録は湘南ベルマーレとなって以降を含め、最多得点差試合である。
2006年現在はテレビ東京やWOWOWのサッカー解説などをつとめている。
所属クラブ [編集]

千葉市立さつきが丘中学校
市立船橋高等学校
1989年-1997年 フジタ/ベルマーレ平塚
1997年 川崎フロンターレ
1998年-1999年 名古屋グランパスエイト
2000年 大宮アルディージャ  


Posted by minokei1 at 21:58Comments(0)

2010年11月18日

二宮洋一

二宮 洋一(にのみや ひろかず、1917年11月22日 - 2000年3月7日)は兵庫県出身のサッカー選手、サッカー指導者。第二次世界大戦後初のサッカー日本代表監督を務めた。現役時代のポジションはフォワードであった。
目次 [非表示]
1 略歴
2 所属クラブ
3 代表歴
3.1 出場大会
3.2 試合数
4 外部リンク
略歴 [編集]

旧制第一神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)を卒業後、慶應義塾大学予科を経て大学に進学。 慶應義塾大学体育会ソッカー部および慶應BRBの選手として、大戦前のサッカー全日本選手権大会(当時は天皇杯が冠されていなかった)において、4度の優勝(1936年、1937年、1939年、1940年)を遂げた。 また大戦後は慶應BRBおよび全慶應のメンバーとして、天皇杯に3度優勝(1951年、1952年、1954年)した。
1951年にはサッカー日本代表の選手兼任監督として、ニューデリーで開催された第1回アジア競技大会に出場した。 その後も選手として何度か日本代表に名を連ねたが、1954年の天皇杯決勝を最後にトップレベルの競技生活からは退いた。
1976年には日本サッカー協会理事に就任、各種の役職を歴任した。 2000年に肺炎で死去。
2006年4月には、サッカー功労者として日本サッカー殿堂入りが決定した。
所属クラブ [編集]

第一神戸中学校
慶應義塾大学
エリオット商会
代表歴 [編集]

出場大会 [編集]
アジア競技大会(1951年、1954年)
ワールドカップスイス大会予選
試合数 [編集]
国際Aマッチ 6試合 1得点(1940-1954)  


Posted by minokei1 at 21:57Comments(0)

2010年11月18日

トーキョースパムCHANNKOSUMOとハーフナー・マイク

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トーキョースパムCHANNKOSUMO こんばんは

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Posted by minokei1 at 21:57Comments(0)

2010年11月17日

├─≠ョ─ヵラスとレミオロメン

├─≠ョ─ヵラス 粉雪
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス バンド名は、メンバーでジャンケンをし、勝った順に1文字、2文字、3文字好きな文字を選び繋げたものである  


Posted by minokei1 at 19:49Comments(0)

2010年11月13日

├─≠ョ─ヵラスと原由子

├─≠ョ─ヵラス 桑田佳祐
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 原 由子(はら ゆうこ、本名:桑田 由子(くわた ゆうこ、旧姓:原)、1956年12月11日 - )は、日本のミュージシャン・キーボーディスト・歌手・シンガーソングライター。神奈川県横浜市出身。血液型B型。愛称は「原坊(ハラボー)」。夫はサザンオールスターズのリーダーである桑田佳祐で、桑田との間に2男あり。なお、桑田からは「お母ちゃん」「お母さん」「ゆうこりん」と呼ばれることがある。
目次 [非表示]
1 人物・略歴
2 ディスコグラフィ
2.1 シングル
2.1.1 その他
2.1.2 再発盤
2.2 アルバム
2.2.1 オリジナルアルバム
2.2.2 その他
2.2.3 再発盤
2.3 楽曲提供
3 ライブ・コンサートツアー
4 出演
4.1 ラジオ
4.2 CM
4.3 バラエティ
4.4 ドラマ
5 書籍
5.1 著書
6 脚注
7 外部リンク
人物・略歴 [編集]

横浜市内の横浜市立本町小学校、根岸中学校を卒業後、高校入学と同時にフェリス女学院高等学校に編入、卒業。青山学院大学文学部英文学科卒業。
大学入学後、桑田佳祐、関口和之らが所属していたサークル『BETTER DAYS』に入り、友人とフォークデュオ「ジェロニモ」を組んでボーカル・ギター担当で活動する傍ら、桑田らのバンドにもピアノの技術を買われて参加する。
在学中にサザンオールスターズとして「勝手にシンドバッド」でデビュー。キーボードの他、『私はピアノ』『そんなヒロシに騙されて』『鎌倉物語』などではリードボーカルも務めている。初期を除き、サザンのアルバムでは1曲ずつ原がボーカルを取るのが通例となっている。近年はシングルのカップリング曲でもボーカルを担当。
ピアノは幼少時から習い、洋楽は兄の影響もありエルトン・ジョン、ビリー・ジョエル、レオン・ラッセル、エリック・クラプトン他、ブルースを特に好んで聴いていた。ピアノもブルースやサザン・ロックを意識した泥臭いプレイを信条としており、原自身「ピアノを弾く時は男のつもりで弾いている」と語っており、桑田も「時々オッサンがピアノ弾いてるように錯覚する」と語っている。
ボーカルはコブシを効かせた美空ひばりを彷彿とさせる昭和歌謡・グループ・サウンズ風の歌い回しから、ポップス調の曲での柔和な歌唱まで幅広く聴かせる。サザンでの活動がメインの為一歩引いた印象があるものの、その歌声は松任谷由実や竹内まりや等と共にニューミュージック界を代表する女性ボーカリストの1人として挙げられる。
公で披露する事は少ないが、アコースティック・ギターの演奏にも長けており、特にスリーフィンガー・ピッキング、アルペジオについては桑田が「俺より上手い」と語っている。 プレイヤーとしてギターを弾くことが少ない理由として原は「指先の硬さが変わってしまうのでピアノとギターを両立させるのが難しい」と語っているが、サザンのライブや単独のイベント出演などで何度か演奏した事もある。2009年5月18日放送の「桑田佳祐の音楽寅さん」では、TV出演時としては珍しくギターを演奏し、そのテクニックを披露した。
ソロ作品も数年置きのペースでリリースしており、『恋は、御多忙申し上げます』『あじさいのうた』『花咲く旅路』等、多くのヒット曲を残している。ソロ作品のリリースに合わせ、単独でCMや音楽番組への出演もしている。1991年には、NHK紅白歌合戦への単独出場を果たした。ソロではサザンではあまり見せない「女性らしさ」や「可愛らしさ」を前面に押し出した曲がメインである。
ソロ名義でのライブは1981年の学園祭ツアーと1991年のホールツアーの2回のみと少ないものの、1997年のAAAでの谷村有美との共演、1998年と2003年のBEGINのライブへのゲスト出演、1999年に大阪城ホールで行われた、母親達へ送るイベント『MOTHER`S LOVE』への出演等、ゲストとしてイベントへ単独出演しソロ曲を披露している。
実家の家業として、横浜関内駅前の天ぷら屋「天吉(てんきち)」を営んでいる事でも有名で、数多くのファンが訪れている。サザンの初期の楽曲「今宵あなたに」の中でこの店のことが歌われている。しかしながら原自身はエビ天を食べるとじんま疹が出るらしい(桑田は2008年のライブ『真夏の大感謝祭』のメンバー紹介の際に、『エビのたたり』と発言している)。
桑田のレギュラーラジオ番組『桑田佳祐のやさしい夜遊び』では年1回、新年1回目の放送にゲスト出演するのが恒例となっている。2人揃ったトークが公で聴く事が出来る数少ない機会で、放送ではおしどり夫婦ならではの飾らない、ほのぼのしたトークが魅力である。
2007年8月8日に発売の竹内まりやの新曲「チャンスの前髪」にゲストボーカルとして参加、さらに11月7日には風味堂とのスペシャルユニット「ハラフウミ(原由子×風味堂)」として新曲「夢を誓った木の下で」を共作した。同時に映画『リトル・レッド レシピ泥棒は誰だ!?』日本語主題歌として制作された「大好き!ハッピーエンド」も収録されている。原がコラボレートシングルを発売するのは「みんないい子」以来10年ぶりで、サザン系列以外のバンドとの共演は初となった。
2009年4月3日から朝日新聞夕刊にて隔週金曜日にコラム「あじわい夕日新聞」を連載しているが、2010年8月9日付けで桑田の治療のサポートに専念するという理由で一時休載することを表明した。  


Posted by minokei1 at 19:25Comments(0)

2010年11月10日

サビオラのモナコ踊り

ハビエル・ペドロ・サビオラ・フェルナンデス(Javier Pedro Saviola Fernández, 1981年12月11日 - )は、アルゼンチンブエノスアイレス出身、リーガ・サグレスのSLベンフィカに所属するアルゼンチン代表のサッカー選手。 ポジションはFW。
愛称は「コネホ」。スペイン語でウサギを意味する言葉で、ヘルマン・ブルゴスが名付け親である。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 生い立ち・リーベル育成部からトップデビュー
1.2 バルセロナ時代
1.3 レアル・マドリード時代とその後
2 エピソード
3 個人成績
4 タイトル
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
経歴 [編集]

生い立ち・リーベル育成部からトップデビュー [編集]
1981年12月11日、ハビエル・サビオラは首都ブエノスアイレスで生まれる。サビオラが育ったベラグレーノ地区は市内でも有数の富裕層が住む住宅街で、サビオラ自身も何不自由なく少年時代を過ごした。多くの友人と同様サビオラも早くからボールにさわり始め、小学生の頃から数クラブを渡り歩き、10歳の時CAリーベル・プレートのユースに入団する。ちなみに、ディエゴ・マラドーナ擁するアルゼンチン代表が86年メキシコW杯で2度目の優勝を飾っているが、当時5歳のサビオラはあまり記憶していないらしくマラドーナからの影響は薄いとのこと。憧れの選手はアリエル・オルテガだったという。
リーベルではトライアウトの時からそのゴール感覚と独創的なプレーは注目されており、サビオラの才能を見守る環境は充実していたようだが、試合になるとなかなか力が発揮できず、入団して数年間は控え要員としての日々が続く。本人によるとその時は退団も考えていたようだが、度重なるコーチ陣の説得でやっていく自信を保っていたという。14歳となる95年頃から急激に試合感覚をつかみ始め、クラブ内での地位を高めていく。入団から7年が過ぎた97年、Jリーグでも活躍したラモン・ディアスの引き抜きで、サビオラ16歳の時にトップチームへ昇格する。98年10月18日ヒムナシア・フフイ戦に後半から途中出場しプリメーラ・ディビシオンデビューを果たす。翌99-2000シーズンは先発を獲得し、いきなり前期シーズンの得点王に輝きプリメーラ・ディビシオン最年少得点王記録歴代2位につく活躍を見せる。歴代1位はディエゴ・マラドーナの18歳と1日、サビオラは18歳と9日。2000年8月16日にはパラグアイ戦でアルゼンチン代表デビュー。更に2001年、地元開催となったFIFAワールドユース選手権では7試合11得点でU-20アルゼンチン代表の優勝に貢献すると共に、自身も得点王とMVPを受賞した。
バルセロナ時代 [編集]
ワールドユースでの活躍でアルゼンチンで最も期待される新人となったサビオラに特に執念を燃やして獲得に動いていたのがスペインのバルセロナで、最終的に43億ペセタ、当時の日本円にして約28億円の移籍金の下に両クラブは合意に至るが、これはバルセロナが獲得に乗り出して1年半の時間を要してのことだった。当初リーベルはサビオラを手放すことは考えておらず、提示された移籍金に不満で、移籍交渉は難航した。バルセロナ側の果敢な交渉と本人の強い意向、更に癌に侵され闘病中だったサビオラの父親がスペインで治療したいと懇願し、この一件は決着がついた。
リーガ・エスパニョーラ2001-2002シーズン、サビオラは当時のバルセロナのエースであったパトリック・クライファート、当時サッカー界のカリスマ的存在だったリバウドと共にトリデンテと称される3トップを形成し、チーム2位の17得点を記録。2人の名声も助力となりデビューシーズンから高い評価を得た。2002年、アルゼンチン代表の新鋭として日韓W杯への出場が国内及び世界中のサッカーファンから期待されたが落選。
リーガ・エスパニョーラ2002-2003シーズン開幕直前にリバウドがバルセロナを退団。チームは第4節アウェーでのレアル・ベティス戦の3-0の完敗を皮切りに、2度の3連敗、4度の2-2スコアでの引き分けと低迷し、順位は一時期12位にまで後退する。サビオラはバルサ移籍後初のハットトリックを決め、プロ通算100ゴールも達成するが36試合で13得点と満足のいく結果は出せなかった。シーズンを終えての最終順位は6位。しかし、UEFAチャンピオンズリーグでは昨年の準優勝チームのバイエル・レバークーゼンと同組になるなかで、1次予選からの11連勝で大会連勝新記録を樹立。準々決勝でユヴェントスの前に敗退するが、とりわけサビオラはゴール前での勝負強さを発揮しバルササポーターを熱狂させる得点を重ねた。
リーガ・エスパニョーラ2003-2004シーズン、監督にフランク・ライカールトが就任し、ロナウジーニョが背番号10で加入。監督交代に伴い選手選考はシーズン中盤まで手探り状態、システムもWGを採用したり中盤を5枚にしたりとなかなか定まらず、サビオラも起用法に振り回される。クリスマス休暇を挟んで2004年からロナウジーニョとルイス・ガルシアを両STに置き、サビオラをCFに固定した3トップに落ち着き、リーグ終盤から怒涛の8連勝で中位から一気に2位に浮上し、そのまま順位を維持しシーズンを終える。サビオラはクライファートとのポジション争いを制しての先発だった。


バルセロナ時代のサビオラ
2004-2005シーズン、ライカールト監督は昨シーズンの終盤での手応えにチームの方針を固め、更に昨シーズンから会長職に就任したジョアン・ラポルタがジョアン・ガスパール前会長時代に獲得した選手からの脱却を図り、大幅にメンバーが入れ替わる。サミュエル・エトオ、ヘンリク・ラーションらの加入に伴いサビオラはライカールト監督の構想外となり、バルセロナ復帰を願う形でASモナコへレンタル移籍。2005-2006シーズン、モナコとの契約を終えたサビオラはセビージャFCにレンタル移籍。万年中位に甘んじていたセビージャの躍進に貢献し、UEFAカップをも獲得。これで一旦バルセロナに復帰を果たすが、そこには2シーズン続けて年間30得点以上を決めていたサミュエル・エトオがCFの位置を不動のものとしており、また依然としてライカールト監督の眼中になく、レンタル先でそれを揺るがすほどの活躍ができなかったことから上層部は他クラブへ完全移籍させることを切望する。しかしサビオラ本人はバルサへの思いが強く、契約を選択し残留。なお、本人やクラブは「スポーツ上の理由からの残留」としている。[1]
リーガ・エスパニョーラ2006-2007シーズン、エトオやリオネル・メッシが怪我によって長期離脱するという事態からチャンスを得て、シーズン当初は活躍を続けた。しかし、その後は自身の負傷などもあって調子を落とし、特にUEFAチャンピオンズリーグなど重要な試合で活躍できず、彼らが復帰すると再び出場機会を失った。また、この年にはエイドゥル・グジョンセンが加入していたこともサビオラの立場を失う要因となった。バルセロナとの契約は同シーズンまでであったが、2007年5月になってバルサから提示された条件は現行の契約から大幅ダウンとなり、サビオラ自身もチーム内での存在の薄さを感じ、6月18日にバルセロナからの退団が決定した。それでも最もバルセロニスタから愛された選手の一人であり、同シーズンの新聞の調査ではサビオラを支持する票も多く、退団を惜しむ声は大きかった。
レアル・マドリード時代とその後 [編集]
同年7月、彼が新天地として選んだのはバルセロナの最大のライバルであるレアル・マドリードであった。これは長年の敵対関係にある両クラブ間を渡り歩く「禁断の移籍」であり、彼の境遇からルイス・フィーゴの移籍時のようにサポーターの怒りを買うような「裏切り行為」と非難される事はなかったが、バルセロニスタの間からは戸惑いの声が聞かれた。
レアル・マドリードの一員として迎えた2007-2008シーズン、チームはリーガ・エスパニョーラ2連覇を果たすものの、チームの主将であり同じポジションを争うラウル・ゴンサレスがかつてのような得点力を取り戻し、また自身の負傷もあって試合出場の機会は殆どなく、続く2008-2009シーズンもラウルやルート・ファン・ニステルローイの控えに甘んじ、またラファエル・ファン・デル・ファールトやクラース・ヤン・フンテラールの加入、ゴンサロ・イグアインの台頭もあってなかなか出場機会が得られなかった。本人も不満を爆発させ、冬の移籍市場ではポーツマスFCやPSVアイントホーフェンなどへの移籍が噂されたが、結局合意には至らなかった。
2009年6月26日、移籍金500万ユーロの3年契約でリーガ・サグレスのSLベンフィカに移籍。ベンフィカでは親友であるパブロ・アイマールとのコンビで復活を遂げつつある。
エピソード [編集]

好きな背番号は7。
大のバルセロニスタである(ただ、前述のようにレアル・マドリードに移籍)。
その幼い顔つきから女性に人気があり、「サビオラは女性にしかサインしない」と揶揄されたこともある。
本人は些か自分の愛称をよく思っていないらしく、「ウサギってあだ名はあまり好きじゃない」と発言している。
バルセロナではロナウジーニョが入団するまでサビオラのユニフォームが一番人気であった。  


Posted by minokei1 at 00:33Comments(0)

2010年11月10日

クレスポの強力踊り

エルナン・ホルヘ・クレスポ(Hernán Jorge Crespo、1975年7月5日 - )は、アルゼンチン出身の元同国代表、セリエA・パルマFC所属のサッカー選手。ポジションはFW。
目次 [非表示]
1 経歴
2 評価
3 代表での経験
4 所属クラブ
5 タイトル
経歴 [編集]

1975年、アルゼンチンのフロリダで生まれる。父が熱狂的なサン・ロレンソのサポーターとあって幼い頃からボールを蹴り始め、クレスポ曰く「何となく入った」というCAリーベル・プレートでサッカーを始める。 各カテゴリーを順調にステップアップしていくものの、特別能力のある選手とはいえず毎年補欠で下部組織を過ごす。14歳の時に正式契約を交わし、トップの道へ歩む。
プリメーラ・ディビシオン93-94シーズン、クレスポの言葉を信じれば「まさか」のトップデビューを果たす。当時監督だったダニエル・パサレラは成り上がりのクレスポをスーパーサブとして重宝し、クレスポはこのチャンスに13得点という数字で期待に応える。クレスポのゴール前での勝負強さと、若手ならではのフレッシュな躍動感が起爆剤としてチームに合致した結果だった。 94-95シーズン、パサレラはアルゼンチン代表監督に就任することが決まりリーベルを退団。次の監督はクレスポを完全な補欠に追いやり、このシーズンは5得点という不遇の年となる。しかし、成績不振によりすぐさま監督はラモン・ディアスに替わり、クレスポはレギュラーに定着。結果的に見れば6得点でシーズンを終えるが、ラモン・ディアスは辛抱強くクレスポを起用し続け、「改めて自信を得ることができた」とクレスポは述懐している。シーズン後に開催されたアトランタ五輪のアルゼンチン代表に選出され、アルゼンチン代表は銀メダルを獲得。クレスポも才能の片鱗を見せつけ、世界的な評価を得ることになった。
アトランタ五輪での活躍が認められ、1996年にセリエAのパルマに移籍。当初はイタリアのサッカーに馴染めず満足のいく結果を残せなかったが、1999年にはパルマのコッパ・イタリアとUEFAカップの優勝に大きく貢献。その功績が認められ、翌2000年には当時のセリエA新記録となる1100億リラ(約66億円)の移籍金でラツィオへ引き抜かれる。ラツィオでは移籍初年度に得点王を獲得し、在籍2年間でリーグ戦54試合計39得点とその移籍金に劣らぬ大活躍を見せる。
そして2002年にはロナウドの抜けた穴を埋めることを期待されたクレスポは、2000万ユーロに加えコッラーディの譲渡という破格の条件でインテルへと移籍した。しかし怪我の影響であまり試合には出られず、期待ほどの結果は残せなかった。翌シーズンの巻き返しが期待された矢先に、ロシア人の石油王であるアブラモヴィッチがオーナーに就任したチェルシーが行った、スター選手を次々に獲得する補強戦略の対象となり、結局インテルはクレスポを手放してしまった。インテリスタからの猛抗議もあり思い直したインテルは白紙撤回をチェルシーに要求するも時既に遅く、その願いは叶わなかった。
2003年はチェルシーに活躍の場を移すもイングランドのサッカーに順応できず精彩を欠き、出場機会にも恵まれなかった。2004年にはモウリーニョがチェルシーの新監督となったが、構想外だったクレスポはセリエAのACミランにレンタル移籍となる。かつてパルマ時代にも監督だったアンチェロッティ監督の下で、シェフチェンコ等とコンビを組んでその年のUEFAチャンピオンズリーグ準優勝に貢献するなど、クレスポは本来の輝きを取り戻した。本人はそのままイタリアに残ることを望んだが、翌2005年はレンタル元のチェルシーに呼び戻され、4-3-3の場合では伸び盛りのドログバと同じポジションを競わせる形で貴重なスーパーサブとして使われた(シーズン終盤では得点力向上のため、4-4-2の2トップで同時起用もあり)。不本意な形とはいえ、イングランドへの再挑戦では好調なパフォーマンスを維持した。
イタリアへの復帰を熱望するクレスポの意を汲む形で、2006年にはチェルシーから2年契約のレンタル移籍でインテルに復帰。イブラヒモビッチと強力な2トップを形成し、欧州の主要リーグで新記録となるリーグ17連勝に貢献するなどリーグ戦独走の原動力となった。シーズン終了後には再びチェルシーへの呼び戻しが予想されたが、本人の非常に固い意思もありインテルへの残留が決定、その後イギリスに戻ることなく2008年にチェルシーとの契約を終了した。しかし、2008-2009シーズンはチェルシー時代にクレスポを構想から外していたモウリーニョがインテルの指揮官となり、他の主力選手が怪我や規律違反などで招集されない場合以外はベンチに登録されないことが多い。
2009年5月、2009-10シーズンよりジェノアでプレーすることが発表された。ジェノアでは思ったような出場機会を得られず、南アフリカW杯にアルゼンチン代表メンバーとして出場することを熱望していたクレスポは、2010年1月、パルマへ完全移籍し、2000年以来のパルマ復帰となった。2009-10シーズン第38節リヴォルノ戦でパルマ復帰後初ゴールを決めた。  


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2010年11月08日

野間口貴彦

野間口 貴彦(のまぐち たかひこ、1983年5月31日 - )は読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(投手)。兵庫県尼崎市出身。
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1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
2 プレースタイル
3 詳細情報
3.1 年度別投手成績
3.2 背番号
3.3 個人記録
4 エピソード
5 関連項目
6 外部リンク
経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]
シニアリーグ時代に所属した伊丹シニアで世界大会に出場。
2001年関西創価高校から春の甲子園に出場。選抜初出場の同高でベスト4まで進出。2回戦では高井雄平と投げ合い1失点で完投勝利。最終的に準決勝まで進出するが優勝した常総学院に敗退。常総学院の横川史学にサヨナラ打を浴びて惜敗。この時点でプロからの誘いもあったが大学進学を表明したことで指名回避された。
2002年4月創価大学に進学し1年時から春のリーグ戦に登板するも、9月に退部、退学。その理由として、「一発勝負の高校野球に比べ、リーグ戦の続く大学野球にあまり魅力を感じなかった」と雑誌(「グランドスラム」23号)のインタビューで語った。
その年の秋、シダックスに入社。監督の野村克也から英才教育を受け、才能が開花した。2003年の都市対抗野球ではMAX150km/h超のストレートを武器にエースとして活躍し、準優勝に貢献。若獅子賞を獲得して、大会優秀選手に選出された。またIBAFワールドカップに出場し、社会人ベストナインにも選ばれている。2004年もエースとして活躍、チームは都市対抗野球に連続出場したものの準々決勝で敗退。第22回ハーレムベースボールウィークに日本代表として出場した。
ドラフトの前年にあたる2003年には、巨人、阪神、西武の3球団が野間口の獲得を目指した。阪神は2003年ドラフトでシダックスの庄田隆弘を指名しており、小関順二はこの戦略を「野間口獲得のためであるとするならば、阪神もドラフト巧者になった」と論評した。また巨人は、阪神のカツノリを金銭トレードで獲得。シダックスの監督・野村から「もともとジャイアンツファン」とのコメントを引き出した。
野間口本人はセリーグ希望であると報道がなされ、野間口サイドもそれを否定しなかったことから、西武が獲得戦線から離脱。7月20日にシダックス側から西武と阪神に正式に断りの連絡が入り、事実上争奪戦は終結した。
2004年都市対抗野球の準々決勝でシダックスが敗れた後、野間口本人の口から巨人に入団したい旨の発言がなされた。その秋の日本選手権終了後、野間口は正式に巨人の自由獲得枠にて入団の意思表示を行い、同年のドラフト会議で入団した。
プロ入り後 [編集]
2005年
ファームの開幕戦に先発したが、7回4失点で敗戦投手。その後一軍に昇格し、5月1日の広島東洋カープ戦(広島市民球場)で5回4失点ながら、雨天5回コールドになったため完投扱いで、プロ初登板初勝利初完投を達成した。その後2連勝するが失点が多く、初登板から4試合連続途中交代となって二軍降格。故障もあって最終的に4勝3敗、防御率6.61の成績で終わった。5月21日の日本ハム戦では、5回表に投手の岩本勉から本塁打を浴びている。
2006年
中盤に一軍に上がり、先発を務めるものの結果が出ず、原辰徳から「彼を先発で起用した私が間違っていました」との発言があった。シーズン後半は主に中継ぎとして好投し、最終的に26試合に登板している。
2007年
故障で出遅れ、シーズン中盤に一軍に昇格するものの結果を残せず再び二軍降格となる。2軍成績は15試合に登板し5勝4敗。91回を投げて76奪三振、防御率は3.76だった。9月に入り、先発ローテーションが回らなくなったため、一軍に再昇格。
9月12日に神宮球場のクラブハウス前で、原から「思い切って投げろ。オレが守ってやる」と直接言葉をかけられ、「吹っ切れました。健太朗(西村)も疲れてるだろうし、毎日、どんな場面でも投げたい。腹をくくって」と一念発起し、以降活躍をみせた。
9月16日の広島東洋カープ戦で6回無失点、シーズン初勝利。9月22日の対横浜ベイスターズ戦ではプロ初となる9回を投げての完投勝利を、1失点の好投で挙げた。さらには中3日の9月26日対中日ドラゴンズ戦で4回のロングリリーフを無失点でこなし3勝目。10月2日の対ヤクルトとの優勝決定をかけた試合でも、9回表を1回無失点に抑えた。その裏チームが逆転勝ちしたことから勝利投手となり、わずか17日の間に4勝を挙げ、久保裕也とともにチームを救った。先発・リリーフの両面でチームを助けることになり、5年ぶりの優勝につながる貢献と、オフの契約更改などでも評価されている。
2008年
メジャー移籍が確実な上原浩治にかわる若手先発育成の年と目され、その1番手候補として期待されたが、栂野雅史との競争に敗れ開幕当初は中継ぎ起用が主となった。さらに上原や高橋尚成など殆どの先発投手が不調となったことでローテーションを少ない人数で回すことになり、序盤は先発機会も失った。4月26日の阪神タイガース戦では自己最速となる152km/hをマークし、リリーフが確立した5月の交流戦頃から2ヶ月ほど先発ローテーションに入り、前半戦の手薄な先発投手陣をカバーするが、彼自身は前年のように長いイニングを投げることが出来ず2軍降格となった。9月に再昇格したが、上原の復調や東野峻、久保の活躍などもあり中継ぎとして起用にとどまった。
2010年
オフシーズンにサイドスロー(横手投げ)へ挑戦。
プレースタイル [編集]

最速152km/hのストレートを中心に、鋭いスライダーやフォークボールなどを武器とする。制球力・球威・球のキレなど、巨人投手陣で一番の潜在能力と目されている。
気魄・闘志を前面に打ち出してピッチングすることをモットーとしている。  


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2010年11月08日

セス・グライシンガー

セス・グライシンガー(Seth Adam Greisinger, 1975年7月29日 - )は、アメリカ合衆国カンザス州カンザスシティ出身のプロ野球選手。読売ジャイアンツ所属の投手。ニックネームは、「スーパーマン」。
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1 経歴
1.1 アマチュア時代
1.2 プロ入り後
1.3 ヤクルト時代
1.3.1 移籍の経緯
1.4 巨人時代
2 プレースタイル
3 詳細情報
3.1 年度別投手成績
3.2 背番号
3.3 タイトル・表彰
3.4 個人記録
4 エピソード
5 関連項目
6 脚注
7 外部リンク
経歴 [編集]

アマチュア時代 [編集]
野球は5歳から始める。その後もさまざまなスポーツを経験するが、マクリーン高校3年生の時に野球一本に絞った[1]。そこでは投手兼遊撃手として活躍。1992-1993年シーズンにはバージニア州のゲータレードプレイヤーオブザイヤーに選ばれ、1993年のドラフトでは7巡目でクリーブランド・インディアンスから指名を受ける。しかし教育熱心な両親の勧めや本人も学位取得に前向きだったため、グライシンガーはインディアンスとは契約せず、バージニア大学へ進学した[1]。
大学進学後は、最初の2年間で9勝12敗、防御率4.75という成績を残す。大学3年時には123イニングを投げ12勝2敗、防御率1.76、奪三振141という成績を残し、チームの主力として活躍するだけでなく、アトランタオリンピックの代表メンバーにも選ばれ、大会では3勝を挙げアメリカ代表の銅メダルに貢献している。グライシンガーは同1996年のドラフトにおいて、デトロイト・タイガースから1巡目(全体6位)で指名を受けプロ入りする。
プロ入り後 [編集]
バージニア大学をきちんと卒業してから、1997年にデトロイト・タイガース入りしたグライシンガーは、2年目の1998年6月3日にMLBデビューを果たす。この年は21試合に先発し6勝を挙げるものの、このシーズンがMLBに最も長くいたシーズンとなり、以後はMLBとマイナーリーグとを行き来する生活を送ることになる。
2000年、2001年には怪我を負い、2年連続で公式戦登板は無し。2004年にはミネソタ・ツインズに移籍。1年間でチームから放出されると、同年12月にワシントン・ナショナルズと契約。2005年3月には、アトランタ・ブレーブスへと移籍する。AAAのリッチモンド・ブレーブスでプレーを続けたグライシンガーはAAAのオールスター選手に選ばれるものの、結局オールスターゲームを前にした6月7日にチームから放出され、シーズン半ばに韓国へ渡ることになる。
2005年途中から、韓国の起亜タイガースでプレー。登録名は「クレイシンオ」(그레이싱어)だった。途中入団ながら6勝をマークする。2006年には先発ローテーションの一角として29試合に登板し、14勝12敗、防御率3.02、164奪三振を挙げる活躍を見せる。同年12月に東京ヤクルトスワローズと契約し、日本へ渡る。
ヤクルト時代 [編集]
2007年、東京ヤクルトでは当初、外国人枠の関係上、ディッキー・ゴンザレス投手との併用が予定されていたが、ゴンザレス投手が開幕直前で手術のため突然帰国し、シーズン絶望となったために、先発ローテに組み込まれることとなった。
開幕からの活躍が認められ、オールスターゲームに来日1年目ながら監督推薦で出場メンバーに選ばれ、7月21日の第2戦目に登板。5回裏から登板し、無失点に抑えた。また、16勝でセ・リーグ最多勝のタイトルを獲得した。他にも、先発登板数、無四球試合数、投球回数、被安打率、与四死球率、被出塁率、被長打率など、様々な部門でリーグ1位を記録した。また、リーグ特別表彰としてスピードアップ賞も受賞している。
移籍の経緯 [編集]
2007年の秋ごろから在阪スポーツ紙などを中心に「阪神がグライシンガー獲得を検討」という記事が報道されるようになったが、同年11月29日に、ヤクルト側との条件面の折り合いがつかなかったため、自由契約選手として公示されると、阪神が獲得意思を見せ総額2年6億円を提示。巨人、ソフトバンクも獲得の意思を見せた。全球団との交渉が可能となってからも引き続きヤクルトも交渉を続け、7年間在籍し複数年契約を要望していたラミレスをあきらめ、その年の外国人残留交渉をグライシンガーに絞った。2008年の契約として、前年リグス・ゴンザレスと結び失敗している2年契約を提示、阪神を越える2年総額7億円まで提示額を上げ、交渉。その後ソフトバンクは撤退し、ヤクルトとの交渉も決裂。12月11日、巨人が2年総額5億円での契約締結を発表した。スポーツ報知2007年12月10日の記事では、グライシンガー側が「在京で、優勝争いのできる球団」を強く希望していたと説明され、前年の年俸4000万円からすれば6倍以上の額であった。
巨人時代 [編集]
2008年、先発ローテーションの一角として17勝をあげ2年連続でセ・リーグ最多勝となる。この年古巣のヤクルト相手には6試合登板して防御率1.58、5勝0敗であった。 しかし、西武には、2試合登板して防御率14.00、0勝2敗となる。クライマックスシリーズでは第1戦に先発登板し、4回1/3を3失点(自責点は2)し降板。その後に巨人が追いついたため勝敗は付かなかった。日本シリーズでは第4戦に登板したが、交流戦でも相性の悪かった西武を相手に2本の本塁打を打たれ、5回5失点で降板し敗戦投手となる。2009年の交流戦における西武戦では、登板しなかった。
2009年4月3日の対広島東洋カープとの開幕戦(東京ドーム)でメジャー、韓国、ヤクルト時代を通じて自身初となる開幕投手(巨人の外国人投手では1999年のバルビーノ・ガルベス以来)を務めるが、3回0/3、6失点、自責点6で敗戦投手となる。シーズンでは、防御率も一時期5点台となるが、13勝6敗で、来日通算46勝(23敗)となる。阪神戦では4勝0敗、ヤクルト戦では3勝1敗である。この年のシーズン中に右ひじを痛め、翌2010年3月1日に検査のため帰国。ロサンゼルス市内の病院にて内視鏡手術を受ける。
2010年シーズンはここまで2年間相性の良かった対阪神戦も9月20日の試合で伏兵林威助外野手に決め球のバルカンチェンジを甲子園球場の右翼席へ逆転ホームランを許し連勝が「8」で途切れ、0勝2敗。このシーズンは来日初の未勝利に終わった。また同年10月23日、日本シリーズ出場をかけて、中日とのクライマックスシリーズファイナルステージ第4戦に先発したが、伏兵小田幸平捕手に2点適時安打を浴び、ポストシーズンでも白星を挙げることができなかった。今季まで来日通算46勝25敗0セーブとなる。
プレースタイル [編集]


この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2008年11月に貼り付けられました。
140km/h台後半の直球(ツーシーム)と、チェンジアップのコンビネーションで打者を翻弄する投球が特徴である。特に決め球としてバルカンチェンジを多用している。他に見せ球として二種類のカーブ(スラーブ、ドロップカーブ)、スライダーも投じる。
2007年シーズンは開幕から29イニング連続無四死球を記録した(途切れた試合もその一つしか四球を与えていない)。
2007年5月31日には自ら勝ち越し打となるタイムリーを放った。
2008年はチームメイトである阿部慎之助と最優秀バッテリー賞を受賞したものの、2009年は彼が登板の際は第二捕手の鶴岡一成とのバッテリーが多い。
セ・リーグでは広島には2007年は相性が良かったものの2008年は1勝4敗。2009年も開幕戦で黒星を喫するなど極端に相性が悪い。特に栗原健太を苦手としており2008年には3試合連続で本塁打を被弾、2009年の開幕戦でも1回にタイムリーツーベースを打たれている。パ・リーグではオリックスと相性が良いが埼玉西武と東北楽天には相性が悪く2008年の交流戦では各2試合に先発登板して4敗している。2008年の交流戦の成績は1勝4敗、2009年の交流戦は2勝2敗の五分に終わった。  


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2010年11月08日

金刃憲人

金刃 憲人(かねと のりひと、1984年4月10日 - )は、読売ジャイアンツ所属のプロ野球選手(投手)。背番号は28。
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1 来歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
2 プレースタイル
3 人物
4 詳細情報
4.1 年度別投手成績
4.2 背番号
4.3 個人記録
5 脚注
6 関連項目
来歴 [編集]

プロ入り前 [編集]
兵庫県尼崎市出身。尼崎市立園和北小学校1年時に軟式野球の「園和北フレンズ」に入団し、6年時に全国優勝。尼崎市立園田中学校時代はボーイズリーグ「兵庫尼崎」に在籍。中学の1年先輩には後にプロでチームメイトとなる野間口貴彦がいた。
市立尼崎高校進学後は2年冬に甲子園未出場ながら高校全日本台湾遠征メンバーに選出され、MVPを受賞。3年夏の兵庫大会では準々決勝でグエン・トラン・フォク・アンを擁する東洋大姫路高校を完封するまで全て2失点以内に抑えたが、準決勝で坂口智隆を擁する神戸国際大附高校に9回裏2死から5点差を逆転されてのサヨナラ負けを喫してベスト4。
高校卒業後は関西学生野球連盟所属の立命館大学へ進学し、1年秋の京都大学戦でリリーフとして1996年秋の田中総司以来となる1年生でのリーグ戦初登板。その後、関西大学戦で初先発し、最終節の同志社大学戦で1失点完投勝利を挙げた。2年時には春季リーグ戦で優勝して第53回全日本大学野球選手権大会に出場し、初戦で徳山大学に敗れたものの最速144km/hを記録。3年秋には京大戦でノーヒットノーランを達成した。4年時には春秋連続でリーグ最多奪三振を記録し、秋は最優秀投手とベストナインにも選ばれた。2006年の大学・社会人ドラフトにおいて希望入団枠で読売ジャイアンツに入団。
プロ入り後 [編集]
2007年は紅白戦、オープン戦と結果を残し、上原浩治、ジェレミー・パウエルらが開幕に間に合わないこともあり開幕から先発ローテーションに入った。前半戦は落ちついた投球で7勝を挙げる活躍を見せ、高橋尚成・内海哲也らと共に左三本柱と呼ばれるなど新人王の有力候補と言われたが、7月中旬以降は疲労による故障も重なって未勝利に終わり、リーグ4位の20被本塁打、同8位の6暴投を記録するなど新人王獲得はならなかった。
2008年は8試合に登板したが、8点近い防御率で投球回数の半分以上の四球を与えるなど精彩を欠いた。2軍のイースタン・リーグでは13試合に登板し、76回を投げて同10位の61奪三振、8勝2敗、防御率1.66、勝率.800と最多勝(木谷寿巳、由規と同数)、最優秀防御率、勝率の3冠など好成績を残した[1]。
2009年は2軍のイースタン・リーグでは19試合に登板。30回を投げ22奪三振、5勝4敗で防御率は1.80だった[2]。シーズン終盤に一軍へ昇格すると中継ぎで5試合を無失点と結果を出し、クライマックスシリーズや日本シリーズでもリリーフ登板した。
プレースタイル [編集]

主に先発投手を務めていた大学時代からプロ入り当初は、最速151km/hの速球、縦横2種類のスライダー、緩急をつけるためのパームボールを軸に、小さく落ちるフォークボール、シュートを投げていた。
リリーフでの起用が中心になってからはトルネード投法気味にフォームを改造し、スライダーの変化量と切れが向上した。
広島東洋カープ戦に強く、2007年はプロ初勝利を含む4勝0敗を記録するなど、2009年シーズン終了時点で広島に対して敗戦投手になっていない。
人物 [編集]

両親は鳥取県出身。在日韓国人3世だったが大学3年時に日本に帰化した[3]。  


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2010年11月05日

踊り425

2009年8月29日・30日放送の『24時間テレビ32』のチャリティーマラソンランナーに選ばれ、女性ランナーでは(男性も含めば現時点での)最年少で最長距離(126.585km フルマラソン3本分)を完走。[5]放送終了時間までの完走はできなかったが、午後9時12分に完走を果たした。イモトのゴールは次番組「ZERO×選挙 2009」内で放送された。
2009年10月、11月10日開幕のグラチャンバレーの応援スペシャルサポーターに就任。
2010年11月にTBSテレビで放送される『99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜』で、女優として出演する。
「イッテQ」エピソード [編集]

陸上部で培った俊足を生かして『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ)の2007年11月18日放送の「珍獣ハンターオーディション」で50mを全力ダッシュして“珍獣くん”人形を奪い取りオーディションに合格、以後「珍獣ハンター・イモト」、続編「珍獣ハンター・イモト ナイル川源流探しの旅」、「珍獣ハンター・イモト・ワールドツアー 目指せ世界193カ国制覇」の企画に出演。イモト・シリーズがレギュラー化する人気を博している。
珍獣ハンターとしての初仕事は巨大なトカゲ・コモドドラゴンに追いかけられるという体を張ったものであった。このロケの後日談として、スタッフがリハーサルはおろか仮に襲われた時の対処法すら用意していないガチンコ勝負であったことが自身によって語られている。「もしも襲われたらたぶん(紐に縛りつけた)肉に食いつくからたぶん大丈夫。とりあえずは何とかして」というスタッフの言葉に「テレビに殺される…」と思ったという[6]。
2009年2月19日、珍獣ハンターとしての活動の総決算として書籍「世界の果てまでイッテQ!珍獣ハンターイモトの動物図鑑」(出版:日本テレビ放送網)が発売。彼女自身が写真撮影・編集に携わり珍獣コレクションの他にも、旅日記・イモトのインタビュー・絶景ベスト5などが編纂されている。またイモトのコスプレグラビアが付録になっている。価格は999円。一週間で6万5000部が売れ、新宿紀伊國屋書店で行われたサイン会には親子連れを中心に200人が集まった[7]。
「イッテQ」での訪問国一覧 [編集]
[表示]2007年放送
[表示]2008年放送
[表示]2009年放送
[表示]2010年放送
人物 [編集]

芸風は、自称“魅惑の女子高生”といったキャラクターで、セーラー服姿で出演している。制服は母校・米子西高校のセーラー服を模したデザインである。鳥取の方言を使った一人コントを展開する。なお、太く見える眉毛は描いており、本人は「ブサイクメイク」であることを強調し、すっぴんは美少女(本人曰く、成海璃子似との事)であると語っている[8]。ちなみに素顔は上記プレスカードの写真や番組ディレクターのアポ無し自宅訪問のほか、TOKYO GIRLS COLLECTION 2009AUTMN/WINTER[9]や2010年10月10日付けの公式ブログ[10]などでも公開されている。
イッテQではVTR出演が大半でありVTRの中では明るくお転婆なキャラクターであり個性も強いが、大先輩の内村光良などが集うスタジオ収録ではあからさまに緊張の表情が隠せず発言の機会も非常に少ない。出演者に積極的にカラんでいく姿はあまり見られず他のパネラー同志のカラみを後ろからただ笑っていることが多い。以前、初めてプレゼンテーション(通称「めくり」)があった時も内村から「イモト初のめくり! 緊張してんのか?」と問いかけられて苦笑いだった。座席の位置は後部、画面左。
イッテQのロケのため、1年の約半分を海外で過ごすという。
高校生の時、他校に通う彼氏らしき人はいたがそれ以来彼氏ができていない。その彼氏と雨の中キスしたエピソードを語っている。無類のイケメン好きと語っており、理想のタイプは櫻井翔と手越祐也。
しゃべくり007に出演した際は「珍獣や現地の人は全然平気だけど日本人にはめっぽう弱い」と発言し事務所の先輩ネプチューンとの共演に緊張で汗ダラダラだった。中でも堀内健のファンだったことを明かした。
テレビ [編集]

世界の果てまでイッテQ(日本テレビ系) レギュラー
ミリオンダイス(日本テレビ系) レギュラー
ハケンOLは見た!(テレビ東京) レギュラー
ウチくる!?SP(2009年、フジテレビ)
ネプリーグ(フジテレビ) 衝撃!!超人キッズ劇場およびネプキッズリーグSPに出演
イモトアヤコ隊長の美味しい夏メシ探検隊(2010年8月、テレビ東京)
テレビドラマ [編集]

99年の愛 〜JAPANESE AMERICANS〜(2010年11月、TBS)(女優デヴュー作)平松とも(当時編) 役
インターネット [編集]

WEタウンBB「スタ缶」 (あっ!とおどろく放送局、2006年)
あっ!と芸人コレクション! イモトアヤコ「初めてのお泊り。」 (あっ!とおどろく放送局)
CM [編集]

トヨタ自動車 PASSO おすすめ編(2009年4月29日 - ) 加藤ローサの友人役で出演。
サントリー「ビタミンウォーター(肉食系男子篇)」(2009年)速水もこみち、照英と共演
バンダイ「怪獣バスターズ」(2010年)
任天堂「ニンテンドーDSソフト・絵心教室DS」 (2010年) 絵のモデル役
日本ケロッグ「ココくんのチョコワ」(2010年)
書籍 [編集]

『珍獣ハンター・イモト 動物図鑑』(日本テレビ出版 2009年2月)
『どうも、どうも イモトアヤコでございます。』(集英社 2009年10月)
『珍獣ハンター・イモト 動物図鑑 アフリカ編』 (日本テレビ出版 2010年3月)
ゲーム [編集]

イモトの珍獣だらけ (日テレ×GAME) 携帯電話用ゲーム  


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2010年11月05日

踊りハンター

イモトアヤコ(本名:井本 絢子(いもと あやこ)、1986年1月12日 - )は、ワタナベエンターテインメント所属の女性芸能人。鳥取県西伯郡岸本町(現伯耆町)出身。二人姉妹の長女。WCS3期生。ニックネームは「珍獣ハンター・イモト」。文教大学情報学部卒業。日本テレビ系『世界の果てまでイッテQ!』で珍獣ハンターとしてレギュラーパーソナリティを務める。2009年24時間テレビのチャリティ・マラソンランナー。
目次 [非表示]
1 来歴
2 「イッテQ」エピソード
2.1 「イッテQ」での訪問国一覧
3 人物
4 テレビ
5 テレビドラマ
6 インターネット
7 CM
8 書籍
9 ゲーム
10 外部リンク
11 関連項目
12 脚注
来歴 [編集]

小学生時代はバレーボール部のキャプテン。中学校では陸上部に所属し、中学3年生だった2000年の時に鳥取県の陸上競技大会の100メートル競走で6位。
2003年、鳥取県立米子西高校3年生の時に学校祭のミスコンテストでグランプリとなり、同時に劇の主演女優賞、エンターテイナー賞を受賞する。
文教大学に進学。大学3年の時に芸能界入り。フォーリンラブ結成前のバービーと「東京ホルモン娘」というコンビを組んで活動時期があり[1]、このコンビで2006年のM-1グランプリに出場したことがあった(この当時、所属は「アマチュア」の表記)。その後イモトが『世界の果てまでイッテQ!』の珍獣ハンターに選ばれ長期ロケに出たこともあってコンビは自然消滅したという[2]。
『世界の果てまでイッテQ!』のオーディションに合格し、珍獣ハンターの企画で一躍注目を浴びる。父は娘がコモドドラゴンに追いかけられているのをテレビで見て初めて芸人になったことを知った。芸人になることに反対だった父は「鳥取に帰って来い!」と叱責したという。しかし後に両親は芸人という職業を受け入れており、イモトが掲載された雑誌などの切り抜きを集めている[3]
2008年、文教大学情報学部広報学科卒業。現在は友人女性と共に東京在住[4]。  


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2010年11月02日

踊り222

北朝鮮 [編集]
1997年10月23日、金正日が北朝鮮の国防委員会委員長に推戴されたことを記念する祝賀宴に参加[85]。
2000年3月9日、朝鮮総連第一副議長の徐萬述(서만술、ソ・マンスル、en:So Man-sul)らと会談し、「思惑があって支援するようなことではいけない。人道的な協力はすべきで、その中から両国の信頼を醸成していくことが民主党の基本的な考え方だ」と述べるとともに永住外国人の地方参政権付与などについても意見交換を行った[86]。
2001年3月3日、朝鮮総連の韓徳銖議長の告別式に出席し、議長の死を惜しむ挨拶をした[87]。
2009年5月26日、北朝鮮が核実験を強行したことに関連して、安倍晋三が「友愛外交は北朝鮮に通じない。断固たる経済措置を行うべきだ」と述べたことに対し、「価値観の異なる国同士というものがどのようにしたら、この世界のなかで、お互いにその存在というものを認め合えるような立場になり得るかということ。それが安倍氏には理解できないのかもしれない」と述べ、「敵視しあっていた独仏の間でもEUが出来上がった」と価値観の違いを乗り越える必要性を解いた。麻生内閣に対しては、「中国を活用して北朝鮮の扉を開かせることを考えるべきだが、その努力が極めて稚拙で足りない」と非難した[88]。
政権獲得後、普天間基地の政策が北朝鮮から一定の評価をされる[89]など、北朝鮮の民主党批判は控えめとなっている。
拉致問題 [編集]
1997年、北朝鮮による日本人拉致問題について、「困っているときに、拉致事件などの問題が解決しないと援助できないというのでは、彼ら(北朝鮮)の気持ちは和らげることができないのではないか」と前橋市で演説し、貧困・飢饉に苦しむ北朝鮮への食糧支援を訴えた。[要出典]
もっとも、民主党代表だった2002年9月の小泉訪朝に際しては、「急ぎ過ぎて国益を損なった」「拉致問題や不審船問題についての追及が甘い」と厳しく批判。代表退任後の2003年には民主党拉致問題対策本部長に就任し、ブルーリボンを常に胸に付て拉致問題について積極的に発言するなどしていた。
2006年2月、拉致問題を解決するためという名目で、独立の生計を営むことができない脱北者に対して特別永住権を与え、その定住を支援するため、居住の安定の確保、就業の支援、日本語教育等に関し必要な施策を講ずるという内容の北朝鮮人権法案を提出した[90]。
2007年4月、韓国で開催された「平和と共存のための北東アジア指導者会議」で、韓国の識者から「6カ国協議では、拉致問題と北朝鮮の核開発問題を切り離してほしい」という要望に同意するが、拉致問題に関して日本人は理屈より感情が先んじている現実があるので、ナショナリズムを抑えるために韓国の協力が必要であるとスピーチした[91]。
北朝鮮への先制攻撃 [編集]
1999年2月26日の千葉市内での講演では、「あと数分とか数秒で日本を攻撃するミサイルが発射されるという状況が自明のとき、撃たれるままで手をこまねいていなければならないかというと、必ずしも憲法ではそうではない。自衛のために行動することは禁止されていないと理解している」と憲法上では先制攻撃が許される場合もありうるとの見方を示している[92]。ただし2009年5月27日の新聞記者との会見では、「相手の基地の先行的な、こちらでたたきのめしていいなんていう議論も、まさに(核武装議論と)同じように、私は慎むべき議論だと、そのように考えております」と北朝鮮を過度に刺激しない姿勢も示し、外交感覚の良さを見せた。[93]。
ロシア [編集]


2000年9月5日、ロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンと


2009年9月27日、ロシア連邦大統領ドミートリー・メドヴェージェフと
北方領土問題 [編集]
祖父・鳩山一郎が首相のときの日ソ共同宣言から積み残した問題であるゆえ、弟の鳩山邦夫と共に熱心に取り組んでいる。一部からは、発言をした時期によって矛盾がみられ、鳩山の立場は明らかではないともみられている[94]。
2007年2月28日、父・鳩山威一郎の銅像除幕式で、「我々孫たちが真剣に北方領土問題の解決に向け、もう一度踏ん張らないといけない。四島一括返還では1000年たっても還らない」と語った[95]。
2009年2月18日、麻生太郎首相とロシアのメドベージェフ大統領との首脳会談において、「新たな、独創的で型にはまらないアプローチで解決を目指す」ことが言及されると、鳩山は「四島の主権は日本にあるというのは決して譲ってはならない一線だ」、「四島の帰属は日本にあるという前提が抜けてしまうようでは大変危ない」と発言した[96]。
2009年11月18日午前の会談で、鳩山首相は、北方領土にて日露首脳会談を行う案を検討すると語った。しかし、同日夕方の記者団に真意を問いただされると、あくまで意気込みを語ったものだと述べるにとどめた[97]。
2010年4月13日、ワシントン市内で、メドベージェフ大統領と会談。首脳同士で北方領土問題を解決していきたいとする意志を伝えた。メドベージェフ大統領は、鳩山首相の提案に同意し、首脳同士の協議の継続が約束された[98]。
2010年9月10日、ロシアに来訪した鳩山前首相(同年6月に首相を突然辞任した)は、メドベージェフ大統領と北方領土問題を協議。領土問題の解決に向けた首脳同士の協議の必要性が改めて相互認識されることになったが、実質的な進展はなかった[99][100]
国防 [編集]
2000年12月7日、民主党護憲派の「21世紀の民主党を考える会」の会合に講師として招かれ、「平和執行型の国連平和維持活動(PKO)にも日本は参加しなければならない。そのとき、憲法が障害になるなら変えればいい」と述べた[101] 。
2010年1月8日、首相公邸前で記者団に対し、「これから日韓で協力していこうという機運が高まっている中で出てきた話」として日韓両国の安全保障分野での協力を強化するための首脳レベルの共同宣言があると発言[102]。翌日、韓国政府に否定された[103]。
2010年5月27日全国知事会において、尖閣諸島の帰属問題について「日中当事者同士で議論して結論を出す、と私は理解をしている」と発言。[104]
歴史認識 [編集]
慰安婦問題 [編集]
2002年5月31日、日本軍の元慰安婦とされる女性を対象(日本人女性のみ対象外[105])とした「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」の審議を推し進める決起集会を、民主党、共産党、社民党の3党合同で開いた際に、鳩山は、「国はいまだにその責任を認めるとか認めないとか言っているが、被害者の人たちに補償をし、名誉を回復していくのは当然のこと。立法府としてもこの事実を認め、いっそう審議を進めていかなくてはならない」と述べた[106]。
日本の戦争犯罪 [編集]
1999年8月10日、日本共産党や社会民主党の議員と共同で、「恒久平和調査局設置法案」を議員立法として第145回国会に提出[107][108]。また、2000年11月20日に第150回国会[109]、2004年6月9日に第159回国会[110]、2006年5月23日に第164回国会へと廃案のたびに何度も再提出を繰り返している[111]。この法案は、国立国会図書館に恒久平和調査局を設置し、満州事変から日本の敗戦までの間に行われた日本による戦争被害を明らかにしようというもの。調査対象は、日本人を含めた外国人に対する徴用、性的行為の強制、生物化学兵器の開発など日本の戦争犯罪全般を網羅している[112]。鳩山は同法案の成立を目指す恒久平和のために真相究明法の成立を目指す議員連盟の呼びかけ人である[108]。同法案は4回提出され、3回とも廃案となっているが、鳩山は成立に強い意欲を示している。
1999年、日本の戦争責任資料センター代表の荒井信一や戦争被害調査会法を実現する市民会議代表西川重則が主催する「恒久平和調査局設置を求める院内集会」に参加。鳩山は、韓国の金大中大統領が日本に向けて「過去の歴史のことは問題にしない」と発言したのは、「後はあなた方の責任でしっかりやってほしい」という意味であると主張し、日本は過去の調査を行う義務があると訴えた[113]。
2009年1月6日、ニューヨーク・タイムスのノリミツ・オオニシ記者が2008年12月16日に書いた記事「麻生鉱業が連合軍捕虜を労役させていた。日本は戦争犯罪を否定するために証拠を隠蔽していた」[114]に関連して、「不都合な事実から目をそむけるのも麻生政治なのでしょうか。事実も現実も認識できない総理では誰も信用しません。麻生総理の政治姿勢と資質が国際社会からも厳しく問われていることを知るべきです」と麻生太郎総理大臣を非難した。
靖国神社問題 [編集]
2006年5月3日、韓国で行われた韓明淑首相との会談で、「靖国参拝を中断しない限り、韓国・中国の信頼を取り戻せぬ」と小泉純一郎総理大臣の靖国神社参拝を非難した。また、「国立追悼施設を今年の夏に建設できるようにしたい。中国や韓国からいわれるとナショナリズムをあおるので、静かに見守ってほしい」と求めた。[要出典]
2006年8月10日、小泉が公約に掲げていた靖国神社への参拝を実施することについて、「国益を損なっても公約を守るというのは、国民から見れば不可思議な話だ。あまりにも、過去の日本の行為、歴史を軽くみている。国の内外からとても大きな批判が出るだろう」と発言した[115]。
2006年8月15日、小泉が靖国神社を参拝すると、「総理の行動は戦争により被害を受けた人々の心を踏みにじり、国益を大きく損ねている。民主党は党利党略を離れ、歴史を直視し、国益の観点から、総理の靖国参拝に反対をしてきた。民主党は総理の本日の靖国神社参拝を大変に残念に思う」と非難する談話を発表した[116]。
歴史教科書問題 [編集]
2001年、訪問した韓国ソウルでの記者会見で、扶桑社発行の中学歴史教科書について、「いたずらに歴史というものの事実を日本側にとって美化しようとしたことは明らか。そのような偏狭なナショナリズムを持った教科書が採用されることはあってはならない」と指摘し、「各地域の教育委員会で採択され、どんどん使用されていくことは望ましいことではない」と述べた。[117]この発言は、松原仁たちから、「発言が韓国当局の教科書批判に、正当性の根拠を与えたとすれば、不適切との謗そしりを免れない」と非難されたが、鳩山は「その教科書は望ましいとは思っていない。検定による修正で137箇所直っているが、思想的な部分は変わらないことは教科書の著者も認めている」と述べ、重ねて批判した。[要出典]
日本国外からの評価 [編集]
2009年6月3日、民主党本部で、中国駐日大使の崔天凱と会談し、鳩山は自らが首相に就任した場合は靖国には参拝しない考えを伝えた。これに対し、崔は、「民主党のこれまでの歴史認識は正しい。政権交代が実現したら、日中関係はさらに発展する」と応じた[118]。
2009年9月4日、鳩山は韓国の権哲賢駐日大使と会談し、権大使が「韓国の人々は鳩山代表の正しくて均衡の取れた、そして洗練された歴史認識についてよく知っている」と述べると、「『鳩山由紀夫内閣』は歴史認識でも過去を直視できる政権になる。それが自民党政権との違いだ。」と返答した[119]。
米紙ワシントン・ポストは鳩山首相を「愚かで最大の失敗者」と酷評した[120][121]。同紙では他にも「考えや哲学が古い。首相がこんな様子では危機に瀕している日本を救えない」と指摘している[122]。これを受けて中国と台湾の聯合報も「米国政府内では鳩山首相はころころ考えを変え、信用できない人物との見方が広まっている」、「遅々として進まない米軍普天間飛行場移設問題を通じて、米国は鳩山首相の能力を完全に見透かした。」と伝えた[123]。
政治倫理 [編集]
国会運営の姿勢としては「強行採決は国民を愚弄する行為」と否定している[124]。
鈴木宗男衆議院議員を「ODAで私腹を肥やし、公共事業で私腹を肥やし、さらに北方領土問題でも私腹を肥やしていた。このような政治家が日本にいること自体が実に恥ずかしい」と名指しで非難しており[125]、鈴木がいわゆるムネオハウス問題で自民党を離党すると「比例代表選出議員は離党したら議員を辞職すべき」と議員辞職を求めた[126]。
総理大臣を経験した者は政界に影響力を残すべきでない [編集]
2009年7月26日新発田市での講演、2010年6月2日首相退陣時など、何度か「総理大臣を経験した者は政界に影響力を残すべきでない」と明言していた。「総理大臣を終えた後、政界に残っちゃいけない。政治家たるもの影響力を残したい、という方が結構おられる。総理大臣まで極めた人がその後、影響力を行使することが政治の混乱を招いているんじゃないでしょうか」[127]
環境問題 [編集]
「鳩山イニシアチブ」も参照
環境問題については地球温暖化防止に強い関心を見せており、日本の2020年までの温室効果ガスの削減目標(中期目標)について、「1990年比25%削減を目指す」ことを国際社会に約束した。この構想を鳩山は「鳩山イニシアチブ」と名づけている。
外国人の生活改善 [編集]
2010年4月25日、群馬県大泉町の視察後の記者会見で「将来的に、この国をもっと開かれた国にしていかなければならない。日本に住む外国人の医療や教育の問題の改善に向け、政府として対策を検討したい」という考えを示した [128]。
外国人への参政権付与 [編集]
「外国人参政権#鳩山内閣総理大臣の見解」も参照
公式サイトで、「日本は他の国々に比べて外国人の比率がかなり低いこと自体が大いに問題である。これは外国人にとって、日本は住みにくい国であることを物語っている」と見解を示しており[129]、「私などは、定住外国人に国政参政権を与えることをも真剣に考えてもよいのではないかと思っている」との考えを表明している[129]。
2000年1月、朝鮮総連の徐萬述(ソ・マンスル)第1副議長から「地方参政権法案」に対し、民主党が慎重に対処するよう要請されると、党独自に訪朝団を派遣意向を示すなど日朝関係改善に努力するとともに、「参政権」問題に対する朝鮮政府と総聯の立場を検討し、在日朝鮮人の権利問題解決へ方途を模索していくと答えた[130]。
2001年の第151回国会における首相施政方針演説に対する代表質問で、21世紀は「共生の世紀」、「人権の世紀」であり、そのために、永住外国人に地方参政権を与えるべきであると訴えた[131]。
2004年4月14日、在日本大韓民国民団から「永住外国人への地方選挙権付与法案」の早期成立を求める陳情を受けると、「地方参政権付与は当然だと承知している」と表明した[132]。
2008年の第169回国会における首相施政方針演説に対する代表質問で、代表質問で「永住外国人の地方参政権はすでに韓国に先を越されたではないか」と述べ、日本も早く実現すべきとの姿勢を強調した。これに対して、福田康夫首相は「永住外国人に対する地方参政権付与の問題について、韓国の状況は承知しておりますが、この問題は、我が国制度の根幹にかかわる重要な問題でもございまして、各党各会派において議論を進めていただきたいと考えております」と返答した[133]。
2009年1月9日、在日本大韓民国民団の新年会にて、在日韓国人への参政権について「もっと真剣に取り組む1年に」と約束した。[要出典]
2009年4月17日、「日本列島は日本人だけの所有物じゃない[134][135]」「出生率の問題を考えてみても、もっと海外に心を開くということを行わないと、世界に向けても尊敬される日本にならないし、日本の国土を守ることもできなくなる。ですから、私は定住外国人の参政権は、当然付与されるべきだと、そう思っています」などとニコニコ動画で発言する[135]。4月24日の民主党本部での記者会見では改めて「愛のテーマだ。地方での参政権は付与されてしかるべきではないか」と述べている[136]。
2009年4月18日、ニコニコ動画の「ニコニコ討論会」に出演し、「日本列島は日本人だけの所有物じゃないんですから、もっと多くの方々に参加をしてもらえるような、喜んでもらえるような、そんな土壌にしなきゃダメですよ」「日本人が世界の中で一番自信を持ってるはずなのに、なんで他国の人たちが地方参政権ひとつ持つことを許せないのかと。少なく とも韓国はもう認めている訳ですよね。彼らが認めていて我々が認めないというのは、非常に恥ずかしいと思いますね、私は」「私は定住外国人の参政権ぐらい当然付与されるべきだと、そう思っています」と発言している[137][136]。
2009年5月31日、それまで政権公約に明記していた在日外国人への地方参政権付与について、「個人的には前向きに考えるべきだと思うが、党内で結論が出ている状況ではない」と述べ、次期衆院選を控え、党内の対立を深めることは得策ではないと判断、党内の異論を踏まえマニフェスト記載を見送る考えを示した。これにより、同党のこの問題に関するマニフェスト記載が党内で結論として出されたものではなかったことを明らかにした[138]。
2009年11月9日 衆議院予算委員会の自民党稲田朋美の質問にて、憲法15条との関連に対して、憲法改正しなくとも、外国人への参政権付与は可能だと考えている」と発言した[139] 。
2010年1月20日 民主党大会において在日外国人の地方参政権付与について触れ、「在日外国人」を「在日韓国人」と言い間違えた。また、政府として法案提出の検討と、そのための連立与党内の合意形成を目指すこととした [140]。
捕鯨 [編集]
民主党幹事長時代の2008年6月26日、オーストラリア外相・スティーヴン・スミス(en)との会談で、「実はけさ、家内の手料理にクジラが出た。私はクジラを食べない主義なので拒否したが、日本の食卓ではクジラは好かれている現実がある」と述べた[141]。首相就任後の2009年10月26日におこなわれたオランダ首相・ヤン・ペーター・バルケネンデとの会談では、「私はクジラ肉は大嫌いだ」と明言している[142]。一方で、日本の調査捕鯨に対する環境団体の妨害行為を批判し[141]、捕鯨反対国に対し、妨害活動を行っている活動家について対処するよう要請している[142]。
政局 [編集]
2007年11月8日、「次の衆院選で政権を取ることがかなわなかったら、自民党との大連立の話が復活する可能性は出てくる」と述べ、次期衆院選に敗北した場合にも民主党が政権に参加する可能性があることを表明した[143]。さらに、11月13日の記者会見では、「次期衆院選で民主党が第一党になった場合、自民党の一部を取り込んだ形で連立政権を組む」と表明し、総選挙に勝利した場合に自民党と連立することを明らかにした。[要出典]
2007年12月14日、大阪府知事選について、民主党が阪大大学院工学研究科教授の熊谷貞俊の擁立を決定したことに関連して、「一番反対していた奥さまが“あの相手にだけは大阪を任せられない。ここで出なければ男じゃない”と最後は強く推したと聞いている」と述べた。しかし、当の夫人は「そんなこといってません。めっそうもない」と否定している[144]。
2008年1月13日、小沢一郎が11日の衆議院本会議を退席し、補給支援特措法の採決を棄権したことに対し、当初、「小沢氏は大阪府知事選の応援に向かった。(再可決という)暴挙に対して、公務として大阪府民に訴えかけている」と釈明したが、当の小沢は大阪府知事選では再可決について全く触れなかった。[要出典]また、「国会議員としての責務を果たすべきだった」と批判したが、当の小沢には「国民にも民主党にも大事ではない」と切って捨てられた形になっている。大阪府知事選後に、推薦候補が敗北した原因の一つとして小沢の欠席を指摘するも、小沢からは、「幹事長が何をいったか知らないが、府知事選に影響したとは思っていない」と反論され、党首脳部で意思疎通が欠如しているとの印象を与えた。[要出典]
2008年2月10日、民主党非主流派の仙谷由人、枝野幸男、野田佳彦、蓮舫、小沢鋭仁、土肥隆一や自民党の山崎拓、加藤紘一ら反小沢色の強い議員と訪韓した。訪韓前の8日、(反小沢との批判に対し)「全く気にすることのない行動だ」と否定するとともに、「小沢代表のもとで政権交代を担う」と述べたが、9月の代表選までに政権交代できなかった場合、「代表選では選挙を行って次のステップに進むのも必要なプロセスだと考えている」と反小沢の対抗馬として出馬する可能性があることを示唆した。[要出典]
2008年8月26日、ラジオ番組で小沢の無投票再選を評し、「小沢代表の顔を見たら怖い、相手になった場合、何をされるか分からないと感じてしまう方が多いかもしれない」のように述べた[145]。
2009年3月3日、小沢の公設秘書の逮捕をうけて、「小沢氏は、すべてのお金の出し入れを明らかにしている。問題はない。陰謀だ」と政府、与党、検察サイドによる陰謀であるとした。3月8日に福島で開催された集会でも、支出を原則公開していることから「小沢代表は最もクリーンな政治家」と強調した[146]。
2009年3月29日、小沢の進退に関連し、「小沢氏の下での幹事長だ。殉じるときは殉じる」と述べ、小沢辞任の場合は自らも連帯責任を取って幹事長を退く考えを示した。また、後任として自らが代表に就く可能性については「そんなふうにはいかない」と否定した。が、同年5月に代表就任している[147]。
2009年3月18日、東京都内での講演で、「世襲禁止は大きなテーマ。マニフェストに採り入れたい」と語る。[要出典]
2009年6月6日、日本郵政の人事問題に関連して、実弟の鳩山邦夫総務相(当時)に対して、「民主党に協力して加わるなら、早く閣僚を辞めて新しい道を進めたらいかがか」と述べ、自民党離党と民主党への合流を呼びかけた[148]。邦夫がこの問題で事実上更迭され、離党を含めた去就が注目されるようになった6月11日、「西南戦争に決起し、政府に反旗を翻した時の西郷隆盛の言葉を引用した。弟はその覚悟を持っていると当然理解している」と述べ、理解を示した一方で、連携について、「私どもは政権交代を目指している。念頭に置いてはいない」と否定した[149]。
時局から主張が変化した政策 [編集]


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政治とカネの問題(秘書の罪は議員の罪→秘書の罪は秘書の責任) [編集]
2002年3月14日、加藤紘一の秘書による脱税容疑について「言うまでもなく、秘書の罪は国会議員の罪である」と発言[150]。
2002年5月2日、鈴木宗男の秘書逮捕について「私は以前から鈴木議員に辞職を求めてきたが、議員の分身といわれている会計責任者の逮捕は、議員本人の責任であり、改めて強く求める」と述べた[151]。
2003年7月23日、鳩山由紀夫メールマガジン「はあとめーる」で、土井たか子の秘書による秘書給与流用事件について「私は政治家と秘書は同罪と考えます。政治家は金銭に絡む疑惑事件が発生すると、しばしば『あれは秘書のやったこと』とうそぶいて自らの責任を逃れようとしますが、とんでもないことです。秘書が犯した罪は政治家が罰を受けるべきなのです」と配信し、秘書が罪を犯した場合、政治家も罰を受けるべきとしてきた[152]。
2009年6月30日、鳩山由紀夫の政策秘書たち3人が政治資金規正法違反(虚偽記載など)で告発されたことについて、「全く知らなかったこととはいえ、監督責任はあると思っております」と述べ責任を認める一方で、「このことをしっかりと反省をしていく中で、また説明責任を果たしていく中で、代表としての責務を果たしてまいりたい」と述べ、説明と職責を果たすことによって責任をとる考えを示した[153]。
2010年1月22日、衆議院予算委員会で、野党時代に「秘書の責任は政治家の責任」と述べていたことについて、「秘書と政治家が同罪ということを言ったのではない」と釈明した[154]。
小泉改革(やや期待→批判) [編集]
小泉改革について、当初は、2001年6月の小泉純一郎内閣総理大臣(当時)との党首討論の場において、「私は民主党代表だが、首相が構造改革を断行する気持ちで努力することを評価したい」と発言し、さらに、「ヤジを飛ばしている方々は首相の改革路線の足を引っ張っている抵抗勢力なんですよ。私たちは背中を押して差し上げようとしている改革勢力。志半ばで倒れたら民主党があなたの骨を拾ってあげます!」と述べ評価したが[155]、その後、2009年5月15日、民主党代表選挙の前日に開かれた記者クラブ主催の公開討論会において、鳩山は対立候補の岡田克也に対し、「小泉構造改革というものをどのように考えておられるのか。例えば、郵政民営化、岡田さんのとき、代表のときにその戦い(2005年の郵政選挙)がございました。民主党は敗れ去りましたが、しかし、結果として地域が崩壊の憂き目になっております。その新自由主義というものの総括というものをお願いしたい」と述べ、批判的立場から小泉構造改革の総括を求めた[156]。
官房機密費(必要性に疑問→存続) [編集]
2001年2月5日の衆議院本会議での代表質問では、「五五年体制のいわば政治的遺物であり、官邸が機密費として持つ必要性はなくなったのではありませんか。」と発言し、官房機密費は必要性に疑問を投げかけたが[157]、2009年11月19日には、記者団に対して「国益に資するために使わせていただく貴重な資金」と発言し、必要性を認めた[158]。  


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2010年11月02日

踊り221

雇用 [編集]
野党時代の2008年末に発生した年越し派遣村について、自身の所属する民主党は「天災ではなく(自由民主党による)人災だ。責任は政治にある」と非難した[24]。首相就任後の2009年末に政府の緊急雇用対策の一環として「公設派遣村」を設置した[25]。
デノミネーション [編集]
2009年9月の民主党政権発足後、デノミネーションを検討していた事が2010年3月18日に明らかとなった[26]。しかし翌年1月に藤井裕久が財務相を辞任し論議は頓挫した。
外交 [編集]


2009年9月24日、国際連合安全保障理事会にて
「友愛外交」も参照
2009年5月、民主党代表選挙の公約で「価値観の異なる社会とも共生していける友愛外交を推進する」と宣言し、より多くの国との友好関係の構築を唱えた。
2009年5月15日、日本記者クラブ討論会で、「麻生内閣が推進する価値観外交は嫌いです。価値の同じくする国々が外交関係を強めるのは当たり前の話であって、外交というのは、価値観の違う国々が、いかに共存共栄というか、自立をしながら共生をする。そういった関係を作り上げるものである」と述べた。
アメリカ合衆国 [編集]


2008年4月1日、在日本アメリカ合衆国大使ジョン・トーマス・シーファー(中央)、公明党代表太田昭宏(右から1人目)と


2009年9月3日、在日本アメリカ合衆国大使ジョン・ルース(右)と


2009年9月23日、妻の鳩山幸(左から1人目)、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ(右から1人目)・ミシェル・オバマ(左から2人目)夫妻と


2009年11月13日、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ(左手前)、内閣官房副長官補林景一(右奥)らと


2009年11月13日、在日本アメリカ合衆国大使ジョン・ルース(左から2人目)、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ(左から3人目)、内閣官房長官平野博文(右から4人目)、外務大臣岡田克也(右から2人目)らと


2010年4月13日、核セキュリティ・サミットにてアメリカ合衆国大統領バラク・オバマ(奥右)と


2010年5月21日、アメリカ合衆国国務長官ヒラリー・クリントン(左)と


2010年5月21日、アメリカ合衆国東アジア・太平洋担当国務次官補カート・キャンベル(左から2人目)、在日本アメリカ合衆国大使ジョン・ルース(左から3人目)、アメリカ合衆国国務長官ヒラリー・クリントン(右から1人目)と
日米同盟を堅持しつつ、対等な日米関係を目指すなど、アメリカ依存からの脱却を模索している。 産経新聞によると、在日米軍再編交渉の責任者を務めていたリチャード・ローレス元国防副次官が安倍晋三元首相に対し、「アメリカ政府高官の間では鳩山を“日本の盧武鉉”と評している」と述べた(安倍によれば、ローレスは理由として同盟国の指導者としては扱えない・戦略的な話をすることが出来ない・情報を共有することができないの3点を挙げたという)[27]。同記事を執筆した阿比留瑠比は「基地問題などの対米関係の見直しを主張した韓国の盧武鉉前大統領と言動が重なる」と述べている[27]。韓国中央日報でも盧武鉉政権の初期に酷似しているとして「鳩山政権の盧武鉉式政治実験の成敗が注目される」と報じている[28]。
鳩山論文 [編集]
鳩山は『Voice』(2009年9月号)に寄稿した論文私の政治哲学 のなかで、アメリカの経済政策や日米関係の現状を批判した[29][30][28]。『ニューヨーク・タイムズ』が8月27日に論文の抄訳を掲載した[29]ところ、アメリカや台湾で「反米的」と報じられた[31][32][33][34][35][29]。
『産経新聞』はアメリカ国内の反応について、「専門家の間では論文に対して強い失望と警戒感をいだいている」と報じた[36]。鳩山は後日、「反米ではない」と述べている[37]。
在日米軍再編 [編集]
2009年(平成21年)7月19日、鳩山は那覇市にて、普天間基地移設先について「県外移設に県民の気持ちが一つならば、最低でも県外の方向で、われわれも積極的に行動を起こさなければならない。」と述べ、県外移設へ前向きな姿勢を示した[38]。しかし鳩山は、普天間基地を必ず県外移設すると述べたわけではない。
9月25日、鳩山は、米軍普天間飛行場移設計画について「私のベースの考え方を変えるつもりはない」と述べ、首相としても県外移転前提に移設計画を見直す考えを表明した[39]。
10月16日、鳩山は、普天間飛行場移設問題に関し「来年1月の沖縄県名護市長選と(11月にも想定される)県知事選の中間くらいで結論が必要になってくる」と述べ、来年夏までに結論を出すと表明した[40]。
11月13日、東京での日米首脳会談で普天間基地代替施設移設問題について会談をした。移設先決定は先送りとなったが、早期決着を目指すことで合意した。鳩山首相はオバマ大統領に「私を信じてほしい」と述べ、同日配信のメールマガジンで、「国民のみなさまにもぜひ信じていただきたい」と述べた[41]。直後の記者会見ではオバマ大統領が「日米合意である辺野古案を中心に進める」旨の記者会見を行ったが、鳩山は翌11月14日に「日米合意が前提なら作業グループを作る必要はない」と日米合意の辺野古案に捉われないとする発言を行い、日米首脳の認識に違いが出た[41][42][43]。日米合意履行について危惧するジョン・ルース駐日米大使には「心配されているかもしれないが、そうした報道などに惑わされないでください」との書簡を送った[43]。
12月3日、鳩山は、12月1日に岡田、北沢両大臣に年内決着を事実上断念したことを伝えたとする報道について、「事実ではありません。」と答えた。しかし「最初から、みなさんがたは年内にしなきゃいかんとかいろんな話がありますけれども、年内に決めなきゃいかんとかそういう議論を私どもはしているわけではありません。」とも述べ、年内決着にこだわらない考えを示した[44]。
12月4日、在日米軍再編に関する日米閣僚級ワーキング・グループにて、次期参議院選挙が終わるまで普天間基地移転についての答えを待ってほしいとの見解を伝達したが、アメリカ側は反発した[45]。
12月8日、鳩山は、遅くとも来週までに政府の方針を発表し、18日にデンマーク・コペンハーゲンで開かれる国際会議「COP15」の首脳級会合の場でアメリカ・オバマ大統領と会談し、理解を求める考えを示した。[46]。
12月11日、鳩山は「アメリカとしては何も変わらないのが、心の中ではベストだという気持ちは伝わってきています。ただ、やはり普天間の住民の方々のことを考えれば、そういう結論にしてはいけないと」と述べた[47]。
12月15日、鳩山は、普天間基地移設問題の政府方針として、「最終判断を先送りし、今後、与党3党の実務者による委員会を設置して検討する」と決定した。また、5月までに移設先の結論を出す方針を示した。[48]。
12月16日、普天間基地移設問題の先送りをする日本政府方針に米海兵隊トップが懸念を示したことについて、首相公邸前で記者会見の場で、「海兵隊が満足するとは思わないが、日本政府の考えがある。今の沖縄の現状を考えれば、これ以上の結論はない。米国との交渉の中で理解を求めたい」と述べ、最善の打開策であるとの認識を示した[49]。
12月17日、内閣メールマガジンで「針の穴にロープを通すくらい難しいことかもしれない」と移設問題の困難さを表現した[50]。
12月26日、ラジオ番組に出演した鳩山は、移設問題に関する自身の発言が二転三転していることについて、「(記者団への)ぶら下がりで『多少サービスをするか』という発想になって(発言し)、ちょっとの違いが大きく拡大されて伝わった」と自己弁護した。[51]。
2010年(平成22年)1月25日、名護市長選挙で、民主党推薦で基地移設反対派の稲嶺進が当選した。このことについて鳩山は、選挙結果にかかわらずゼロベースから新たな移設先を検討し、5月末までに決着させる考えを強調した[52]。
2月16日、在沖米海兵隊のグアム移転協定で、日米合意のロードマップ(工程表)に記載された普天間代替施設(現行案)の建設が移転条件とされていることについて、鳩山は、新たな移設先を決める5月末までに同協定改定の了解を米側から得る考えを示した。[53]。
3月4日、鳩山は首相官邸にて記者団に対し「3月中のいずれかの時点には政府の考え方をまとめなければいけない」と述べ、3月中には普天間基地移設先について政府方針をまとめると表明した[54]。
3月13日、鳩山が2009年12月にルース駐日米大使と会談した際、日米で合意したキャンプ・シュワブ沿岸部(名護市辺野古)への現行計画を容認していたことが分かった。複数の日米外交筋が11日、明らかにした[55]。
3月21日、鳩山は、米政府がキャンプ・シュワブ沿岸部(名護市)に県内移設する現行計画の履行を求めていることに関し「米側は頑固に現行案がベストだと思っていると思うが、それだけにはとらわれない幅広い考え方を持ち合わせていると思う」と述べ、米国側が軟化しているとの認識を示した[56]。
3月28日、鳩山は、徳之島の有力者である徳田虎雄・元衆院議員(重病により都内病院に入院中)と面会した。鳩山は政府が検討している同飛行場のヘリコプター部隊の鹿児島県・徳之島への移転実現に向け、現職時代に徳之島を選挙区とし、現在も地元に影響力を持つ徳田の協力を求めたが、徳田側は要請を断った[57]。これを受け、住民の代表である町長より先に地元の有力者と面会するのは民主主義に対する冒涜であるとの批判があった。
3月29日、首相ぶらさがり取材にて、普天間基地移設先の政府方針を3月中にまとめることについて、「今月中じゃなきゃならないということは法的に決まっているわけじゃない」と述べ、3月中には政府方針をまとめないことを示唆した[58]。
3月30日、鳩山は、3月中にまとめる方針だった移設先の政府案について「1日、2日、数日ずれることが何も大きな話ではなく、大事なことは5月にしっかりとした案を理解いただくことだ」と述べ、少なくとも数日中には政府方針を決定することを示唆した[59]。
3月31日、第2回党首討論・谷垣禎一自民党総裁との討論において、「腹案を持ち合わせている。現行案と少なくとも同等か、それ以上に効果のある案だと自信を持っている」と語ったが、具体的な内容は明らかにしなかった。また「現地の了解なくして案を進めることはない」、「5月末までに、まず政府案をしっかり作っておかなければならない。(その)連立政権としての考え方を米国に提示し理解を求め、新しい移設先に対して理解を求め、結果として政府案として認めてもらるプロセスになる」、「命がけでこの問題に体当たりで行動し、必ず成果をあげる」と述べ、今後の政府方針およびこの問題に対する覚悟と自信を示した。[60]。
4月13日、米国における核セキュリティサミットにおいて、鳩山首相はオバマ大統領と意見交換した[61]。普天間基地代替施設移設問題の進展が期待されたが、米政府高官筋によれば、全く進展はなく米国側は不信感を抱いたとされる[62]。米紙『ワシントン・ポスト』はコラムにて、オバマ政権高官が鳩山首相を「loopy(ルーピー)」[63]と評していると伝えた[64][65](Loopyとは「いかれた奴」という意味である)。平野官房長官はこの件に関し、「一国の首脳に対し、いささか非礼ではないか」との認識を示した[66]。意見交換は通訳を交え短時間の約10分間と伝えられ、オバマ大統領は2009年11月13日の「私を信じてほしい(Trust me)」と鳩山から言われた事を踏まえて「あなたは成し得るのか?(Can you follow through?)」と問いただしたとされる[67][68][69]。ただし、鳩山は4月22日の衆議院本会議の際、自民党・新藤義孝の質疑に対する答弁で、オバマ大統領からそのようには言われなかったと否定している[70]。
4月18日、移設先の有力候補と報道されていた、鹿児島県・徳之島で反対集会が開かれ、政府に移設断念を求める決議文を採択した。集会には主催者発表で目標の1万人を超える1万5千人が参加した[71]。
同日、米政府は4月下旬に予定していたキャンベル米国務次官補の来日見送りを日本側に通告した[71]。
4月25日、沖縄県の米軍普天間飛行場の県内移設に反対し、国外・県外への移設を求める大規模な県民大会が同県読谷村(よみたんそん)で開かれ、主催者発表で約9万人が参加した。仲井真県知事も出席し、鳩山政権に対し、「公約通り、責任ある解決策を示さないといけない。ネバー・ギブアップ、しっかりやってもらいたい」と求めた。名護市の稲嶺進市長は、政府内で現行計画の修正案が浮上していることについて、「場当たり的なやり方で、県民を愚弄するものだ」と厳しく批判した[72]。しかし普天間飛行場の県外移設が民主党や鳩山総理の公約であったことは一度もない。
5月4日、沖縄を総理大臣就任後初訪問し、仲井真沖縄県知事、稲嶺名護市長と会談した。会談では、普天間基地の移設先の一部は沖縄県内とする考えであることをに伝え、残りの一部については徳之島への移設を考えていることを明言したが、理解は得られなかった。また会談後の記者団とのインタビューにて、「(2009年(平成21年)7月19日の)『最低でも県外』発言は当時の党代表としての発言であり、民主党の公約ではなかった」、「(アメリカ海兵隊の抑止力について)知れば知る程、海兵隊の抑止力が大きいのだと解った。考えが浅かったと言われればその通りかもしれない。」と述べた。[73][74]。
5月7日、鳩山は首相官邸にて徳之島3町長と会談した。会談後、3町長は記者会見して「飛行場移設は絶対反対という民意は決して変わらない。これからますます強くなる。首相が(徳之島に)来ても、お会い出来ない。会っても平行線だから」と語った[75]。
5月8日、鳩山は、「最低でも県外」としていた自身の発言について「努力をしたいという思いで今日まで行動してきた。場当たりな発言は一切していない」と述べ、最初から「最低でも県外」というのはあくまでも努力目標であったことを明言し、発言には一貫性があるとの認識を示した[76]。
5月10日、鳩山は、普天間基地移設問題の進展がないことについて「『5月末(決着)』は、私が国民の皆さんに申し上げている。変えるつもりはない」と強調した[77]。
5月12日、鳩山は、普天間基地移設問題の進展がないことについて、「5月末までにできる限りのことはする」と述べ、5月末は努力目標であることを示唆した[77]。
5月12日、鳩山は、平野官房長官が15日に徳之島を訪問することについて、「町の方から要請をいただいた。無理に私どもの方から申し上げているわけではない」と述べ、徳之島側から基地移設の話し合いについて要請があったことを明言した[78]。
チベット問題 [編集]
2007年11月23日、民主党の幹事長だった鳩山由紀夫はダライ・ラマ14世と会談し、ダライ・ラマ14世が、チベット問題について「高度な自治を求め、右手を中国政府に差し出しているが何も得られていない。左手で欧米や日本に協力を求めたい」と述べたのに対し、「力強くサポートさせていただく」と応えた。[79]、2009年9月21日、内閣総理大臣に就任した鳩山は中国の胡錦濤国家主席と会談し、チベット問題は「中国の内政の問題と理解している」と述べ、内政問題という認識を示した上で、「それだけに対話を通じて見事に解決することを期待したい」として、中国側による平和的な解決を期待した[80]。
韓国 [編集]
2006年4月10日、韓国・釜山で民主党の外交政策について講演し、自民党の外交政策を「米国ばかりを向いたから、日本は孤立した外交になっている」と批判した上で「民主党は、中国、韓国、ASEAN・東南アジア諸国連合と友情の濃い関係をつくっていく」と述べた。[要出典]また、靖国神社参拝問題や歴史教科書問題の清算が日本側の課題であると見解を示した。 [要出典]
2006年5月2日、小泉総理大臣の靖国神社参拝に反発した韓国政府が日韓シャトル外交を中止すると、「与党の党首(小泉首相)が出来ないならば野党第一党として自らの役割を果たさねばならない」と韓国を訪問した。韓国では「民主党執行部の顔ぶれが新しく変わったから大いに期待してほしいというメッセージを伝えに来た」と自民党との違いをアピールをした。 [要出典]
2006年5月4日、韓国の韓明淑国務大臣と会談。韓が「日本側の歴史教科書歪曲、靖国参拝強行、独島問題などで最近両国関係に緊張がもたらされている」と強い遺憾の意を表明すると、「全ての領土問題は、根本的に歴史から始まる。日本が、歴史的事実をより正確に理解するよう努力する必要がある」と歴史的事実を直視する姿勢を示した[81]。
2008年12月11日、韓国の李明博(イミョンバク)大統領の実兄の李相得(ko:이상득、イ・サンドゥク)に対して、「(日本の)政権交代のため、韓国からご協力を」と求めた[82]。
2009年6月5日、韓国の李大統領とソウル市内の青瓦台(大統領官邸)で会談した。この会談で鳩山は李大統領に「一部に過去の侵略行為や植民地化を美化する風潮もあるが、私たちはそのような立場をとらない。私たちは過去の歴史を直視する勇気を持っている」と述べた[83]。
2010年10月13日、韓国の李大統領とソウルの大統領府で会談。東アジア共同体構造についての談義をし、「日韓両国が一つの経済圏となることが望ましい」という見識が一致した[84]。  


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2010年11月02日

鳩山由紀夫

├─≠ョ─ヵラス 宇宙人
├─≠ョ─ヵラス









生い立ち [編集]


鳩山一郎(左)、鳩山邦夫(右)と
東京都小石川区(現在の文京区)に大蔵官僚(のちに参議院議員)だった父・鳩山威一郎、母・安子の長男として生まれる。学習院初等科、学習院中等科、東京都立小石川高等学校を経て、東京大学工学部応用物理・計数工学科を卒業。その後、スタンフォード大学の博士課程でオペレーションズ・リサーチを専攻しPh.D.を取得(1976年 博士論文はシステムの信頼性解析に関するもの)。1976年東京工業大学助手、1981年に竹下登が理事長をつとめ、曾祖父鳩山和夫が設立に大きく貢献した専修大学の経営学部助教授に就任したが、1984年3月に政界入りをこころざして退職した[1]。
政界入り [編集]
政治家を志したきっかけは中川一郎の存在だったというが[2]、弟である鳩山邦夫は2009年9月15日で放送されたフジテレビのクイズ番組『クイズ$ミリオネア』のなかで、「(弟が政治家になったから)自分もやってみようかな」であるともいわれている。1986年、第38回衆議院議員総選挙で、自民党の公認を得た田中派新人として、鳩山家が牧場を所有し中選挙区時代は出陣式行っていた鳩山神社という神社がある祖父の代からの地盤北海道から[3]、出馬した。鳩山事務所側は、「立候補の直接のきっかけは福田派の三枝三郎衆議院議員の引退がきっかけ」と主張している[4]。初の選挙スローガンは科学者を志望していた自身の経歴をアピールした「政治を科学する」であった[5]。得票数では同じ自民党・石原派から福田派合流の高橋辰夫に次いで2番目の得票数で当選した。小選挙区になった1996年以降は、鳩山家が開拓した地域は鳩山の選挙区から外れた(小平忠正が選出されている北海道10区内の栗山町)[6]。なお、地方区分の選挙区自体は祖父と重複していないため、祖父の地盤を世襲していないと扱われている[7]。
当時39歳、弟邦夫に遅れること10年と、決して早いとはいえない政界入りだったが、豊富な資金力[8]に加え、祖父以来の人脈や名門出身の毛並みの良さ・知名度に支えられ[9]、短期間で頭角を現し、1990年代の政界再編期に、一躍、中心的存在となっていく。
1988年には86年当選組を中心とした派閥横断的な政策集団として、のちの新党さきがけの母体となる「ユートピア政治研究会」を結成、リクルート疑惑に揺れる党内にあって、自民党の巨額の政治資金の実態を明らかにして反響を呼び、1990年代の「政治改革」運動の萌芽となった。
新党さきがけ [編集]
1993年、政治改革を巡り自民党を離党。武村正義らと新党さきがけを結成参加。総選挙後、非自民・非共産連立政権で成立した細川護煕内閣では内閣官房副長官(政務)に就任し、新党さきがけ代表の武村官房長官、代表代行の田中秀征首相特別補佐、日本新党代表幹事で、のちに、新党さきがけに移籍する荒井聡とともに細川内閣を支えた。
日本社会党委員長村山富市を首班とする自社さ連立政権では、さきがけ初代代表幹事園田博之の官房副長官就任にともない、後任の幹事長として政権を支えた。
1994年秋、翌春の北海道知事選に出馬がとりざたされ本人も乗り気だったが、村山と武村と井出正一の説得で断念[10]。自民党と自由連合の共同推薦候補伊東秀子を支持したが、横路孝弘後継で新進党と日本社会党の推薦候補堀達也に敗北した。
1995年7月、第17回参議院議員通常選挙で新党さきがけ代表幹事として山中あき子を北海道選挙区で擁立画策したが山中は辞退。
旧民主党 [編集]
1996年春頃から新党さきがけの党名を発案した簗瀬進や簗瀬の宇都宮高校の後輩で中選挙区時代からのライバルで同じく栃木1区出馬予定のの新進党幹部船田元と新党構想を打ち上げる。船田との新党作りは挫折したが、横路、簗瀬、菅直人、弟の邦夫と共に旧民主党を結党。「排除の論理」で武村と袂を分かつ[11]。
民主党 [編集]


2009年8月30日、民主党代表代行小沢一郎(右)と


2009年9月23日、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ(右)と


2009年11月8日、タイ王国首相アピシット・ウェーチャチーワ(左)と
民主党では幹事長代理を経て、1999年9月の民主党代表選挙に勝利。公約として正面から憲法改正を掲げて話題となった。2000年6月の衆院選、2001年7月の参院選など、国政選挙の度に党勢を拡大させ、2002年9月の代表選でも勝利したが、直後の人事で批判を浴びて求心力が低下、2002年12月統一補選での惨敗と自由党との統一会派騒動をめぐる党内混乱の責任を取る形で代表を辞任。
その後も、民主党内で最大派閥であった(民主党は「派閥」とは表現せず「グループ」としている)「鳩山グループ」(政権公約を実現する会)をひきいて、憲法問題や北朝鮮による日本人拉致問題などについて積極的に発言するなど一定の影響力を維持していた。
2005年9月11日投開票の第44回衆議院議員総選挙で民主党が敗北したことを受けての代表選挙では、当初、小沢一郎、菅直人らと後継代表の一本化を図るが、中堅・若手の代表格である前原誠司が立候補を表明したため水泡に帰した。9月17日発足の前原執行部で幹事長に就任。
2006年2月に発生した堀江メール問題では、当時幹事長にもかかわらず、ことの発端となったメールに関し、永田・前原両議員から事前にほとんど何の相談も受けていなかったとされる。3月、前原執行部が総辞職すると幹事長を引責辞任することを表明するが、同年4月7日に行なわれた前原誠司民主党代表辞任に伴う代表選で小沢一郎が当選すると、幹事長に留任した。新潟県中越沖地震発生当時、新潟市内での演説を予定していたが、高崎駅で下車して、自動車で柏崎市入りした。党新潟県中越沖地震対策本部長に就任。
2007年7月の参議院選挙大勝を受けての党役員人事で引き続き、党幹事長に留任。
2009年5月、小沢一郎代表の辞任を受け、かねてからの主張どおり党幹事長を辞職。その後の党代表選挙で岡田克也を破り、代表に就任。
2009年8月30日投開票の第45回衆議院議員総選挙にて、民主党は単独政党としては史上最多の308議席を獲得。
内閣総理大臣 [編集]
詳細は「鳩山由紀夫内閣」を参照
2009年9月16日、衆参両院の首班指名選挙で国民新党、社民党を連立与党として、第93代内閣総理大臣に就任。戦後の歴代内閣総理大臣としては、初めての大卒かつ理系出身の内閣総理大臣となった[12]。
政権は高支持率でスタートしたが、自身の政治資金問題や普天間基地移設問題を巡る混乱で強い批判を浴び、翌年にかけて支持が急降下。2010年6月2日、民主党両院議員総会での発言を求め、 民主党代表および内閣総理大臣からの職を退くとした辞意を表明[13]。同年6月8日、 歴代の内閣総理大臣に倣わず内閣記者会を介す公式とされる国民向け退任会見を行わず内閣総理大臣の任を終えた[14]。
思想信条 [編集]



2009年9月4日、世界経済フォーラム日本総会にて
「リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー#友愛の政治思想」も参照
「リベラルは愛であり、この愛は友愛である」と、祖父鳩山一郎が好んで用いた友愛という言葉をリベラルの根底においている。[15]。
鳩山由紀夫の祖父、鳩山一郎は、第二次世界大戦終結後、戦前の統帥権干犯問題の責任を問われて公職追放され、追放解除目前の1951年には脳梗塞で倒れ、不運な状態が続いたことから世間の同情を集めていたが、リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー伯爵と出会い、その友愛思想に感銘を受けて、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯のドイツ語の著作『Totaler Staat, totaler Mensch』(1937年) の英訳書『The Totalitarian State Against Man』(1938年) を『自由と人生』(1952年)と題して自ら翻訳出版した[16]。翌年、友愛青年同志会(現財団法人日本友愛青年協会)を結成する。
鳩山も自身の祖父の友愛思想とクーデンホーフ=カレルギーの友愛思想を政治活動の基本とし[15]、鳩山友愛塾など友愛の名前がついた組織、団体などを設立している。
鳩山は1996年に『論座』へ寄稿した論文「わがリベラル友愛革命」で、自己の尊厳を高めることに最大の努力を払う、自己を高めて初めて他者に優しく振る舞うことができる、自愛が利他を生む、意見を異にしてもそれを許容し、品格を信頼し友情を結ぶことができるという自己の尊厳の尊重が友愛精神の本質だと説いている[17]。そして、個を基本にし、党議拘束から解放された個の自由による連合、リベラルを友愛、すなわち、自己の尊厳の尊重と解した「リベラル合同」を成し遂げると主張している[18]。 キリスト教系の政財官界人の親睦会「インターナショナル・VIP・クラブ」で講師を務めているが、自らは新興宗教崇教真光の信徒である。
政策 [編集]

マニフェスト(政権公約)については、「いつまでに何をやるという工程表をマニフェスト(政権公約)で示すつもりはない。揚げ足を取られる危険性がある」と述べており、政権公約に政策実現の目標期日を設定することに否定的である[19]。
日米関係強化を外交の柱とした小泉純一郎・元総理とは大きく異なり、全方位外交を実践。近隣諸国との相互理解を深めつつ、対等な日米関係を目指す安定した友愛外交を展開する。
内政においては事業仕分けにより、民主党政権として無駄遣いであるとされる分野の予算を削減するよう方向性を纏めた。
2010年度通常国会にて人権侵害救済法案と外国人地方参政権法案、夫婦別姓法案の成立に強い意欲を示したが国民新党の亀井の反対で断念
憲法・改憲論 [編集]
新憲法制定議員同盟顧問を務め、憲法改正を推進している。2000年には「2年で改正試案を各党が出して、速やかに憲法改正の結論をつけよう」と呼びかけ[20]、自らも憲法試案を作成した。この改正案は鳩山の公式サイトで公開している[21]。
「#国防」も参照
皇室 [編集]
皇位継承問題 [編集]
『月刊現代』2004年7月号に、「私の憲法改正試案いまこそ『女帝』容認のとき」を寄稿した。同年5月4日の長野県の講演では、「皇位、皇統に属する男子又は女子が継承する」との条文を新たに盛り込むべきだと述べた。また、2005年11月18日の記者会見で、政府の「皇室典範に関する有識者会議」が出した女系天皇容認方針に寛仁親王が異論を唱える見解を示したことについて、「女系天皇に慎重な立場ということは似ている」と同調する考えを表明した。「女性天皇は当然、あってしかるべきだし、歴史的にもあるが、女系天皇まで容認すれば、日本の歴史、伝統からみると大変大きな変化であり、慎重に議論することが重要だ」と述べた。[要出典]
天皇会見に関する宮内庁との衝突 [編集]
詳細は「天皇特例会見」を参照
2009年11月26日、外務省は12月15日を予定とする天皇と習近平中華人民共和国副主席との会見を宮内庁に申請した。宮内庁側は、外務省に対し、(天皇の体調への負担と相手国への公平性の観点から)天皇と外国要人との会見は1か月前に申請する(「1か月ルール」)ことを求めており、実際の申請が1か月を切っていたためこれを断った[22]が、鳩山由紀夫内閣の平野博文内閣官房長官は、12月7日・12月10日の両日「首相の指示。日中関係の重要性にかんがみて」と繰り返し要請した[22]。12月11日、羽毛田信吾宮内庁長官は記者会見で、「政治的利用じゃないかといわれれば、そうかなという気もする」、「現憲法下の天皇のお務めのあり方や役割といった基本的なことがらにかかわることだ」、「政治的重要性などにかかわらず、平等に外国と向き合うのが陛下のなさり方」、「悲しいこと。今後二度とあってほしくないというのが私の切なる願いだ」と述べた[22]。同日、鳩山は、記者団に対して、「1か月を数日間切ればしゃくし定規でダメだということで、果たして本当に諸外国との国際的な親善の意味で正しいのか」、「政治利用にはあたらない」と述べた[23][22]。なお「1か月ルール」は法律で定められたものではない。  


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2010年11月01日

踊り12

黒澤の世界的な評価と同時に三船も「世界のミフネ」として海外で広く知られる存在になっていった。
「赤ひげ」を最後に黒澤は三船を使わなくなり、その為2人の関係は様々に取り沙汰されることになる。  


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2010年11月01日

踊り11

三船敏郎との関係
黒澤は、1948年の『醉いどれ天使』にはじまり、1965年の『赤ひげ』まで計16本の映画に三船敏郎を起用し、頻繁に主演として使った。この時期の黒澤作品は「三船無くして黒澤は無く、黒澤無くして三船は無い」とでもいうべき、スター俳優とスター監督との幸福な関係に支えられているといってよい。黒澤は「三船君は特別の才能の持主で代わる人がいないんだ」と語っている。  


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2010年11月01日

スカイツリー

├─≠ョ─ヵラス 西岡剛
├─≠ョ─ヵラス









世界的な影響
日本国外の映画作家らへの影響は計り知れず、直接作品の中で模倣されたものだけでも枚挙に暇が無い。ジョージ・ルーカスは代表作『スター・ウォーズ』の登場キャラクターを『隠し砦の三悪人』から着想したと述べている(そもそも『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』のストーリー自体が『隠し砦の三悪人』に酷似しており、ファーストシーン・ラストシーンともそっくりである)。
スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』において砂嵐の中からジープが現れる場面は『蜘蛛巣城』、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』で主人公が後ろ姿だけで顔を見せない冒頭は『用心棒』、『シンドラーのリスト』のパートカラーは『天国と地獄』、『プライベート・ライアン』のオマハビーチの戦闘シーンは『乱』を模したと言われる。
フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』のファーストシーンの結婚式の場面は、『悪い奴ほどよく眠る』の手法を模したと言われる。
また、『七人の侍』が米映画『荒野の七人』(ジョン・スタージェス監督)、『用心棒』が米映画『ラストマン・スタンディング』(ウォルター・ヒル監督)などに翻案された。イタリア映画『荒野の用心棒』(セルジオ・レオーネ監督)のように、盗作問題に発展したケースもある。
マーティン・スコセッシは黒澤映画を名画座に通い続け鑑賞し、また実際にフィルムを手にしカットの構成を研究し尽くしたという。
技術的には、例えばサム・ペキンパー監督が得意として他のアクション映画でも多用されるアクションシーンのスローモーション撮影は、元を辿れば黒澤明の手法であり、アクションシーンを望遠レンズで撮る技法も同様である。また、雨や風、水といった自然描写の巧みさはアンドレイ・タルコフスキーのような芸術映画監督を感嘆させて影響を与え、『羅生門』の映像美とストーリーテリングの巧みさはフェデリコ・フェリーニが深く共感した。この映画では、どしゃぶりの雨の質感を出すために墨汁を混ぜた水を放水車で降らせる、当時の技術的タブーを破って太陽に向かってカメラを向けさせる、森の中を走るシーンを移動撮影ではなくてパニングで撮るために俳優達をカメラの周りを円を描くように走らせる、といったように視覚効果を得るため様々な工夫を凝らしている。
さらに、『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』(ピーター・ジャクソン監督)の合戦シーンで、『七人の侍』の雨の中で弓を引く勘兵衛のショットがそのまま引用されていたり、『ラストサムライ』(エドワード・ズウィック監督)では雨や風、馬や屍の使い方など、黒澤映画から引用されたショットは多数に渡っている。黒澤を尊敬しているとコメントした映画人は数知れないほどである。『七人の侍』の影響からか、主役格が7人である映画は多い。
ジョン・ミリアス、ジョージ・ミラー、ロン・ハワードも黒澤映画の大ファンであり、自身の作品に大きく投影されている。
クリント・イーストウッドは「クロサワは自分の映画人生の原点だ」と語っている。
北野武も黒澤映画の影響を受けた人物の一人である。また黒澤も北野映画のファンであることを公言している。  


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