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2010年11月08日

野間口貴彦

野間口 貴彦(のまぐち たかひこ、1983年5月31日 - )は読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(投手)。兵庫県尼崎市出身。
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1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
2 プレースタイル
3 詳細情報
3.1 年度別投手成績
3.2 背番号
3.3 個人記録
4 エピソード
5 関連項目
6 外部リンク
経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]
シニアリーグ時代に所属した伊丹シニアで世界大会に出場。
2001年関西創価高校から春の甲子園に出場。選抜初出場の同高でベスト4まで進出。2回戦では高井雄平と投げ合い1失点で完投勝利。最終的に準決勝まで進出するが優勝した常総学院に敗退。常総学院の横川史学にサヨナラ打を浴びて惜敗。この時点でプロからの誘いもあったが大学進学を表明したことで指名回避された。
2002年4月創価大学に進学し1年時から春のリーグ戦に登板するも、9月に退部、退学。その理由として、「一発勝負の高校野球に比べ、リーグ戦の続く大学野球にあまり魅力を感じなかった」と雑誌(「グランドスラム」23号)のインタビューで語った。
その年の秋、シダックスに入社。監督の野村克也から英才教育を受け、才能が開花した。2003年の都市対抗野球ではMAX150km/h超のストレートを武器にエースとして活躍し、準優勝に貢献。若獅子賞を獲得して、大会優秀選手に選出された。またIBAFワールドカップに出場し、社会人ベストナインにも選ばれている。2004年もエースとして活躍、チームは都市対抗野球に連続出場したものの準々決勝で敗退。第22回ハーレムベースボールウィークに日本代表として出場した。
ドラフトの前年にあたる2003年には、巨人、阪神、西武の3球団が野間口の獲得を目指した。阪神は2003年ドラフトでシダックスの庄田隆弘を指名しており、小関順二はこの戦略を「野間口獲得のためであるとするならば、阪神もドラフト巧者になった」と論評した。また巨人は、阪神のカツノリを金銭トレードで獲得。シダックスの監督・野村から「もともとジャイアンツファン」とのコメントを引き出した。
野間口本人はセリーグ希望であると報道がなされ、野間口サイドもそれを否定しなかったことから、西武が獲得戦線から離脱。7月20日にシダックス側から西武と阪神に正式に断りの連絡が入り、事実上争奪戦は終結した。
2004年都市対抗野球の準々決勝でシダックスが敗れた後、野間口本人の口から巨人に入団したい旨の発言がなされた。その秋の日本選手権終了後、野間口は正式に巨人の自由獲得枠にて入団の意思表示を行い、同年のドラフト会議で入団した。
プロ入り後 [編集]
2005年
ファームの開幕戦に先発したが、7回4失点で敗戦投手。その後一軍に昇格し、5月1日の広島東洋カープ戦(広島市民球場)で5回4失点ながら、雨天5回コールドになったため完投扱いで、プロ初登板初勝利初完投を達成した。その後2連勝するが失点が多く、初登板から4試合連続途中交代となって二軍降格。故障もあって最終的に4勝3敗、防御率6.61の成績で終わった。5月21日の日本ハム戦では、5回表に投手の岩本勉から本塁打を浴びている。
2006年
中盤に一軍に上がり、先発を務めるものの結果が出ず、原辰徳から「彼を先発で起用した私が間違っていました」との発言があった。シーズン後半は主に中継ぎとして好投し、最終的に26試合に登板している。
2007年
故障で出遅れ、シーズン中盤に一軍に昇格するものの結果を残せず再び二軍降格となる。2軍成績は15試合に登板し5勝4敗。91回を投げて76奪三振、防御率は3.76だった。9月に入り、先発ローテーションが回らなくなったため、一軍に再昇格。
9月12日に神宮球場のクラブハウス前で、原から「思い切って投げろ。オレが守ってやる」と直接言葉をかけられ、「吹っ切れました。健太朗(西村)も疲れてるだろうし、毎日、どんな場面でも投げたい。腹をくくって」と一念発起し、以降活躍をみせた。
9月16日の広島東洋カープ戦で6回無失点、シーズン初勝利。9月22日の対横浜ベイスターズ戦ではプロ初となる9回を投げての完投勝利を、1失点の好投で挙げた。さらには中3日の9月26日対中日ドラゴンズ戦で4回のロングリリーフを無失点でこなし3勝目。10月2日の対ヤクルトとの優勝決定をかけた試合でも、9回表を1回無失点に抑えた。その裏チームが逆転勝ちしたことから勝利投手となり、わずか17日の間に4勝を挙げ、久保裕也とともにチームを救った。先発・リリーフの両面でチームを助けることになり、5年ぶりの優勝につながる貢献と、オフの契約更改などでも評価されている。
2008年
メジャー移籍が確実な上原浩治にかわる若手先発育成の年と目され、その1番手候補として期待されたが、栂野雅史との競争に敗れ開幕当初は中継ぎ起用が主となった。さらに上原や高橋尚成など殆どの先発投手が不調となったことでローテーションを少ない人数で回すことになり、序盤は先発機会も失った。4月26日の阪神タイガース戦では自己最速となる152km/hをマークし、リリーフが確立した5月の交流戦頃から2ヶ月ほど先発ローテーションに入り、前半戦の手薄な先発投手陣をカバーするが、彼自身は前年のように長いイニングを投げることが出来ず2軍降格となった。9月に再昇格したが、上原の復調や東野峻、久保の活躍などもあり中継ぎとして起用にとどまった。
2010年
オフシーズンにサイドスロー(横手投げ)へ挑戦。
プレースタイル [編集]

最速152km/hのストレートを中心に、鋭いスライダーやフォークボールなどを武器とする。制球力・球威・球のキレなど、巨人投手陣で一番の潜在能力と目されている。
気魄・闘志を前面に打ち出してピッチングすることをモットーとしている。  


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2010年11月08日

セス・グライシンガー

セス・グライシンガー(Seth Adam Greisinger, 1975年7月29日 - )は、アメリカ合衆国カンザス州カンザスシティ出身のプロ野球選手。読売ジャイアンツ所属の投手。ニックネームは、「スーパーマン」。
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1 経歴
1.1 アマチュア時代
1.2 プロ入り後
1.3 ヤクルト時代
1.3.1 移籍の経緯
1.4 巨人時代
2 プレースタイル
3 詳細情報
3.1 年度別投手成績
3.2 背番号
3.3 タイトル・表彰
3.4 個人記録
4 エピソード
5 関連項目
6 脚注
7 外部リンク
経歴 [編集]

アマチュア時代 [編集]
野球は5歳から始める。その後もさまざまなスポーツを経験するが、マクリーン高校3年生の時に野球一本に絞った[1]。そこでは投手兼遊撃手として活躍。1992-1993年シーズンにはバージニア州のゲータレードプレイヤーオブザイヤーに選ばれ、1993年のドラフトでは7巡目でクリーブランド・インディアンスから指名を受ける。しかし教育熱心な両親の勧めや本人も学位取得に前向きだったため、グライシンガーはインディアンスとは契約せず、バージニア大学へ進学した[1]。
大学進学後は、最初の2年間で9勝12敗、防御率4.75という成績を残す。大学3年時には123イニングを投げ12勝2敗、防御率1.76、奪三振141という成績を残し、チームの主力として活躍するだけでなく、アトランタオリンピックの代表メンバーにも選ばれ、大会では3勝を挙げアメリカ代表の銅メダルに貢献している。グライシンガーは同1996年のドラフトにおいて、デトロイト・タイガースから1巡目(全体6位)で指名を受けプロ入りする。
プロ入り後 [編集]
バージニア大学をきちんと卒業してから、1997年にデトロイト・タイガース入りしたグライシンガーは、2年目の1998年6月3日にMLBデビューを果たす。この年は21試合に先発し6勝を挙げるものの、このシーズンがMLBに最も長くいたシーズンとなり、以後はMLBとマイナーリーグとを行き来する生活を送ることになる。
2000年、2001年には怪我を負い、2年連続で公式戦登板は無し。2004年にはミネソタ・ツインズに移籍。1年間でチームから放出されると、同年12月にワシントン・ナショナルズと契約。2005年3月には、アトランタ・ブレーブスへと移籍する。AAAのリッチモンド・ブレーブスでプレーを続けたグライシンガーはAAAのオールスター選手に選ばれるものの、結局オールスターゲームを前にした6月7日にチームから放出され、シーズン半ばに韓国へ渡ることになる。
2005年途中から、韓国の起亜タイガースでプレー。登録名は「クレイシンオ」(그레이싱어)だった。途中入団ながら6勝をマークする。2006年には先発ローテーションの一角として29試合に登板し、14勝12敗、防御率3.02、164奪三振を挙げる活躍を見せる。同年12月に東京ヤクルトスワローズと契約し、日本へ渡る。
ヤクルト時代 [編集]
2007年、東京ヤクルトでは当初、外国人枠の関係上、ディッキー・ゴンザレス投手との併用が予定されていたが、ゴンザレス投手が開幕直前で手術のため突然帰国し、シーズン絶望となったために、先発ローテに組み込まれることとなった。
開幕からの活躍が認められ、オールスターゲームに来日1年目ながら監督推薦で出場メンバーに選ばれ、7月21日の第2戦目に登板。5回裏から登板し、無失点に抑えた。また、16勝でセ・リーグ最多勝のタイトルを獲得した。他にも、先発登板数、無四球試合数、投球回数、被安打率、与四死球率、被出塁率、被長打率など、様々な部門でリーグ1位を記録した。また、リーグ特別表彰としてスピードアップ賞も受賞している。
移籍の経緯 [編集]
2007年の秋ごろから在阪スポーツ紙などを中心に「阪神がグライシンガー獲得を検討」という記事が報道されるようになったが、同年11月29日に、ヤクルト側との条件面の折り合いがつかなかったため、自由契約選手として公示されると、阪神が獲得意思を見せ総額2年6億円を提示。巨人、ソフトバンクも獲得の意思を見せた。全球団との交渉が可能となってからも引き続きヤクルトも交渉を続け、7年間在籍し複数年契約を要望していたラミレスをあきらめ、その年の外国人残留交渉をグライシンガーに絞った。2008年の契約として、前年リグス・ゴンザレスと結び失敗している2年契約を提示、阪神を越える2年総額7億円まで提示額を上げ、交渉。その後ソフトバンクは撤退し、ヤクルトとの交渉も決裂。12月11日、巨人が2年総額5億円での契約締結を発表した。スポーツ報知2007年12月10日の記事では、グライシンガー側が「在京で、優勝争いのできる球団」を強く希望していたと説明され、前年の年俸4000万円からすれば6倍以上の額であった。
巨人時代 [編集]
2008年、先発ローテーションの一角として17勝をあげ2年連続でセ・リーグ最多勝となる。この年古巣のヤクルト相手には6試合登板して防御率1.58、5勝0敗であった。 しかし、西武には、2試合登板して防御率14.00、0勝2敗となる。クライマックスシリーズでは第1戦に先発登板し、4回1/3を3失点(自責点は2)し降板。その後に巨人が追いついたため勝敗は付かなかった。日本シリーズでは第4戦に登板したが、交流戦でも相性の悪かった西武を相手に2本の本塁打を打たれ、5回5失点で降板し敗戦投手となる。2009年の交流戦における西武戦では、登板しなかった。
2009年4月3日の対広島東洋カープとの開幕戦(東京ドーム)でメジャー、韓国、ヤクルト時代を通じて自身初となる開幕投手(巨人の外国人投手では1999年のバルビーノ・ガルベス以来)を務めるが、3回0/3、6失点、自責点6で敗戦投手となる。シーズンでは、防御率も一時期5点台となるが、13勝6敗で、来日通算46勝(23敗)となる。阪神戦では4勝0敗、ヤクルト戦では3勝1敗である。この年のシーズン中に右ひじを痛め、翌2010年3月1日に検査のため帰国。ロサンゼルス市内の病院にて内視鏡手術を受ける。
2010年シーズンはここまで2年間相性の良かった対阪神戦も9月20日の試合で伏兵林威助外野手に決め球のバルカンチェンジを甲子園球場の右翼席へ逆転ホームランを許し連勝が「8」で途切れ、0勝2敗。このシーズンは来日初の未勝利に終わった。また同年10月23日、日本シリーズ出場をかけて、中日とのクライマックスシリーズファイナルステージ第4戦に先発したが、伏兵小田幸平捕手に2点適時安打を浴び、ポストシーズンでも白星を挙げることができなかった。今季まで来日通算46勝25敗0セーブとなる。
プレースタイル [編集]


この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2008年11月に貼り付けられました。
140km/h台後半の直球(ツーシーム)と、チェンジアップのコンビネーションで打者を翻弄する投球が特徴である。特に決め球としてバルカンチェンジを多用している。他に見せ球として二種類のカーブ(スラーブ、ドロップカーブ)、スライダーも投じる。
2007年シーズンは開幕から29イニング連続無四死球を記録した(途切れた試合もその一つしか四球を与えていない)。
2007年5月31日には自ら勝ち越し打となるタイムリーを放った。
2008年はチームメイトである阿部慎之助と最優秀バッテリー賞を受賞したものの、2009年は彼が登板の際は第二捕手の鶴岡一成とのバッテリーが多い。
セ・リーグでは広島には2007年は相性が良かったものの2008年は1勝4敗。2009年も開幕戦で黒星を喫するなど極端に相性が悪い。特に栗原健太を苦手としており2008年には3試合連続で本塁打を被弾、2009年の開幕戦でも1回にタイムリーツーベースを打たれている。パ・リーグではオリックスと相性が良いが埼玉西武と東北楽天には相性が悪く2008年の交流戦では各2試合に先発登板して4敗している。2008年の交流戦の成績は1勝4敗、2009年の交流戦は2勝2敗の五分に終わった。  


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2010年11月08日

金刃憲人

金刃 憲人(かねと のりひと、1984年4月10日 - )は、読売ジャイアンツ所属のプロ野球選手(投手)。背番号は28。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
2 プレースタイル
3 人物
4 詳細情報
4.1 年度別投手成績
4.2 背番号
4.3 個人記録
5 脚注
6 関連項目
来歴 [編集]

プロ入り前 [編集]
兵庫県尼崎市出身。尼崎市立園和北小学校1年時に軟式野球の「園和北フレンズ」に入団し、6年時に全国優勝。尼崎市立園田中学校時代はボーイズリーグ「兵庫尼崎」に在籍。中学の1年先輩には後にプロでチームメイトとなる野間口貴彦がいた。
市立尼崎高校進学後は2年冬に甲子園未出場ながら高校全日本台湾遠征メンバーに選出され、MVPを受賞。3年夏の兵庫大会では準々決勝でグエン・トラン・フォク・アンを擁する東洋大姫路高校を完封するまで全て2失点以内に抑えたが、準決勝で坂口智隆を擁する神戸国際大附高校に9回裏2死から5点差を逆転されてのサヨナラ負けを喫してベスト4。
高校卒業後は関西学生野球連盟所属の立命館大学へ進学し、1年秋の京都大学戦でリリーフとして1996年秋の田中総司以来となる1年生でのリーグ戦初登板。その後、関西大学戦で初先発し、最終節の同志社大学戦で1失点完投勝利を挙げた。2年時には春季リーグ戦で優勝して第53回全日本大学野球選手権大会に出場し、初戦で徳山大学に敗れたものの最速144km/hを記録。3年秋には京大戦でノーヒットノーランを達成した。4年時には春秋連続でリーグ最多奪三振を記録し、秋は最優秀投手とベストナインにも選ばれた。2006年の大学・社会人ドラフトにおいて希望入団枠で読売ジャイアンツに入団。
プロ入り後 [編集]
2007年は紅白戦、オープン戦と結果を残し、上原浩治、ジェレミー・パウエルらが開幕に間に合わないこともあり開幕から先発ローテーションに入った。前半戦は落ちついた投球で7勝を挙げる活躍を見せ、高橋尚成・内海哲也らと共に左三本柱と呼ばれるなど新人王の有力候補と言われたが、7月中旬以降は疲労による故障も重なって未勝利に終わり、リーグ4位の20被本塁打、同8位の6暴投を記録するなど新人王獲得はならなかった。
2008年は8試合に登板したが、8点近い防御率で投球回数の半分以上の四球を与えるなど精彩を欠いた。2軍のイースタン・リーグでは13試合に登板し、76回を投げて同10位の61奪三振、8勝2敗、防御率1.66、勝率.800と最多勝(木谷寿巳、由規と同数)、最優秀防御率、勝率の3冠など好成績を残した[1]。
2009年は2軍のイースタン・リーグでは19試合に登板。30回を投げ22奪三振、5勝4敗で防御率は1.80だった[2]。シーズン終盤に一軍へ昇格すると中継ぎで5試合を無失点と結果を出し、クライマックスシリーズや日本シリーズでもリリーフ登板した。
プレースタイル [編集]

主に先発投手を務めていた大学時代からプロ入り当初は、最速151km/hの速球、縦横2種類のスライダー、緩急をつけるためのパームボールを軸に、小さく落ちるフォークボール、シュートを投げていた。
リリーフでの起用が中心になってからはトルネード投法気味にフォームを改造し、スライダーの変化量と切れが向上した。
広島東洋カープ戦に強く、2007年はプロ初勝利を含む4勝0敗を記録するなど、2009年シーズン終了時点で広島に対して敗戦投手になっていない。
人物 [編集]

両親は鳥取県出身。在日韓国人3世だったが大学3年時に日本に帰化した[3]。  


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